【日本の歴史】真実の日露戦争!日本が日露戦争に踏み切った理由!渡部昇一

乃木希典の旅順攻略

そのうちですね、旅順攻略の乃木さんの方が、海軍の方からせっつかれます。

とにかく、旅順にまだ戦艦6隻、巡洋艦4隻いるわけですからね。

こんなのに出てこられたら、バルチック艦隊が出て来た時にえらい事になりますから。

とにかく旅順を取ってくれというわけです。

それで、旅順は正面の要塞はもの凄く重厚だけれども、203高地は…なんてことで乃木さんの悲劇があるんですが、まぁとにかく取らなければならないという事で、取りました。

取ってみますとですね、203高地、203mあるわけですね。

そこからね、旅順の港を見ますとね、真下に見える。

そこに観測所を建てて、28サンチ榴弾砲とかいう横須賀辺りの沿岸に置いてある沿岸砲を据え付けて、ボカボカ撃つわけです。

そして、全部沈めちゃう。

それで分かった事はですね、当時の海上の戦闘はですね、大砲を撃ち合うというのが建前でした。

それで、沈まないようにお互いに工夫したわけです。

ところがですね、真上から大砲を撃たれるとですね、意外に効き目があるんですね。

真上から落ちるという大砲は。

それで、ボカボカボカボカ沈めたわけです。

で、これを後で研究したのがですね、ドイツのティルピッツという提督でね。

大砲の玉は、高角度から落とすとですね、意外な効果があるという事を発見してですね、1916年の第一次大戦の時の、一番大きな海軍の戦い、ジュットランド沖海戦というイギリスの海軍とドイツの海軍がやった時にこれをやったんですよ。

そしたら、イギリスの戦艦3隻が轟沈ですよ。

てな事で、それ以来、軍艦は甲板も底もえらく厚くする事になったんですけどね。

まぁ、そういう事もありました。

旅順攻略に成功

それで、船が全部沈んだという事が分かったらね、東郷さんという人は、やっぱり綿密な人でですね、自分の目で確かめているんですよ。

確かに一隻もいないと。

そう確認すると東郷さんは、武器などを送る輸送を警戒する船を少し残してね、全艦隊を軍港に返して、補修させるわけです。

それまで1年近く海に浮いていますから、随分汚れたりしているし、砲弾を受けて、壊れていたりしますから、全部それを徹底的に直したんですよ。

そして、兵隊も休養させたんです。

休養させられた兵隊はですね、どこの村に帰りましてもですね、日本中が、バルチック艦隊はどうした、と言っているわけですよ。

バルチック艦隊が来てですね、朝鮮半島を脅かしたら、陸軍がいくら勝っても、ダメですからね。

日本中が、バルチック艦隊、バルチック艦隊。

そうすると帰った兵隊さん達もですね、

「そうか日本の命運は俺たちの双肩にかかっているのか」

なんて言ってですね、火の玉のように闘志を燃やして帰っていくんですね。

そして、ゆっくり休んで、鎮海湾で、猛烈な砲撃の訓練をするんですよ。

その砲撃の訓練が旅順が落ちてから、バルチック艦隊が来るまで、そのうち2ヵ月くらい休んでいますけどね、最初は。

砲撃の訓練を見るのに、東郷平八郎大将は、一日も休んだ事が無かった。

必ず見に行っていた。

そして、玉の当たり具合がどんどんよくなるのを見ていたんですね。

参謀とか他の艦長なんかはこなかったりよくしたらしいんですけど、東郷さんだけは、一日も休まずに見ていたといいます。

それでいよいよ、バルチック艦隊ですね。

日本の緻密な調査部隊

これがどこに来るかも色々あったのですが、詳しい話は別にしてですね、当時の日本の偉かった事はね、敵を探すという事に非常に慎重でした。

南シナ海を沢山の区分けをしましてね、そこにみんな小さい船を置きまして、どこかに通る影があっても見えるようにして、すぐに鎮海湾に連合艦隊の司令部をおいて、そこに電信で知らせるようにしました。

この電信と言うのも、マルコーニが発明してから3、4年しか経っていないのに、マルコーニが電信が成功したとなるとですね、すぐに買ってですね、日本は船に備え付けたんです。

日本は、武装に対して、非常に敏感だったんですね。

そうしたらですね、敵の艦隊が来てですね、途中で、ロジェストヴェンスキーという艦隊司令長官はですね、対馬海峡の一番狭い所を渡るときに、昼に渡りたかった。

夜になると、日本の水雷艇とかきて、魚雷を発射されると、夜だと防ぎにくいからね、昼間通ろうと思った。

計算すると夜になってしまう。

時間をズラすためにね、南シナ海で砲撃練習なんかをやっていたんですね。

そうしたら、日本は艦隊が来ない、という事でえらく心配してですね。

ひょっとしたら、太平洋を渡って、青森から来るんじゃないだろうか、あるいは宗谷海峡から、などといった色々な説もありました。

結局、東郷さんがですね、鎮海湾で待ちましょう、という事で決まったわけです。

そうして、いましたらですね、南シナ海をたくさんの海区に分けましてね、網の目のように分けまして、そこの各船を置いて、通ったらすぐ電信するようにとしていたら、偶然にもね203という海区にね、艦隊が来た時に発見したわけです。

その艦隊の後をつけてですね、逐一電信を入れていましたので、どこをどういう風に行ったか、最後まで日本ははっきり分かっていました。

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