週刊誌が秘め事を暴きメディアが叩くリンチと罪!法治国家・民主主義における大原則!武田邦彦

反論を聞くのが好きな理由

僕は自分の反論を聞くのは、結構好きなんですね。

反論が聞くのは好きで、賛成のもちろん、あぁなるほど、こういう点をよく理解していただいたかってもちろん人間だから好きなんですけど。

反論もあぁなるほど、こういう考え方もあるなぁと、こう思うわけですね。

反論だけが好きなわけじゃないんですけども。

で、そうしていますと、この前、秘め事を暴く罪っていうのを書いたんですね。

またこれ色々コメントがありまして、これを見ているうちにですね実は現在の社会、日本社会は秘め事を暴く所か、もうリンチなんだなっと思い始めたわけですね。

法治国家 民主主義における大原則

っていうのは、法治国家民主主義における、法治国家の大原則はですね。

我々が代議員を投票して国会議員ができ、国会議員が法律を作り、その法律が社会で合意したものやってはいけない事とか、やるべきな事を合意してそれに反すると罰せられるけどもその範囲ですと自分の人生を自由に謳歌できるというのがですね、私たち、特に私が望んでいる社会なんですね。

ですから、それについてですね、まぁこの頃突如としてですね、そうではないことでメディアがものすごく騒いで、それで大げさものすごく大げさになる。

マスコミによるリンチの実態

一つはほとんど罪ではないものが、マスコミによって罪になる、つまりこれはリンチですよね。

昔私若いころ西部劇が好きで、よく西部劇読んであの見てるとですね。

映画見てるとですね、えっと立派な保安官がでてきて、ギャングがでてきてですね、わーっと戦ってついにそのならず者が取り押さえられるわけですよ。

そうすると町の人がですね、縛り首に縛り首にしろって叫ぶんです。

で、それを保安官ワイヤットアープとかですね、そういう英雄が出てきてですよ。

君たちダメだ、法の裁きを受けさせるんだと。

法の裁きが結局正しいことなんだっつって、みんなもしぶしぶ我慢してその犯人をワシントンとかそういうふうに護送すると。

そういうような映画が多かったんですね、水戸黄門みたいなもんですよ、日本でいえば。

で、なるほどなぁっと思ったことがあるわけですね。

もちろんあの当然あの教科書でも習いますが、法治国家というのは法律に定めたことを違反したら罰せられると、それ以外は我々は自由だと。

そうしないと我々は一体何をしていいかわかんなくなっちゃうというのが一つあります。

レ・ミゼラブルのジャンバルジャン

もう一つはまぁレ・ミゼラブルのジャンバルジャンに代表されるようにお腹が減ってもうしょうがない、お金がない。

ついパンに手を出して、パンを盗んでしまった、もちろんそれはいけないことだ。

しかしいけない事でもですね、やっぱものには程度がある、ということですね。

ですから、例えばパンを一個盗んだから死刑だとか懲役10年だと、こういうのはいきすぎでそれにはそれのふさわしい量刑ってのがあると。

まぁこのブログでは、あの少し後に死刑廃止についてのあの考えも述べてみたいと思う、求めてみたいと思うんですけども。

法律に触れなければ罰せられない

それはそうとつまり二つ原則ある。

一つは我々民主主義法治国家で住んでいるときはですね、法律に触れなければ罰せられない、ということがまず一つですね。

罰せられる罰は適切でなければならない

それから二番目が法律に、例えば触れたら罰せられてもその罰というのは適切じゃなきゃいけないということですね。

1人を殺したら死刑が妥当

私はまあ、人を殺したら死刑だと思うんですけどまああの三、今三人殺さなきゃ死刑じゃないっていうのがあるらしいんですが、まあ私の感じでは人を殺したらやっぱり死刑だろうと。

それから人のうちに強盗に入って包丁で人を刺して、まぁ死なないまでも、そしたらやっぱり10年くらいの刑はあるだろうと、そんな感じはするんですが。まあ非常に微細な罪ですとね、それはそうじゃないんじゃないか。

週刊誌が秘め事を暴くリンチと罪

まぁこの前書いた秘め事を暴く罪っていうのは現在の男女の関係とか、そういうんで秘め事を暴く週刊誌が秘め事を暴くと、まあゴシップですね。

そうすると法律的には大したことないって言うかもうほとんどプライベートだけという、極端な場合は独身の男女の付き合いなんかもですね。

マスコミが大きく騒いで、非常に大きなバッシングを受ける、もうほとんど仕事もできない、収入も奪われるというのはですね。

まあそういった酷いのがあるわけですね。

で、こういったものはいわゆる昔型に言えばリンチなんですよ、リンチ。

つまり勝手にマスコミがメディアがですね、勝手に良い悪いを決めてそれでメディアの力ですね。

まぁ毎日テレビで放送するとか日大なんかの例もそうで、もちろんあのアメリカンフットボールの関係ではですね。

事実を明らかにしたり、厳しい処分をしたりするのはまあいいと。

例えばあのアメリカンフットボールの学連がですね、監督とコーチを永久追放したと、この永久追放っていうのは凄い大きいですよ。

だってそのアメリカンフットボールの関係で仕事ができなくなるわけですから、卒業として職を失うんですからね。

これやっぱり可哀そうっちゃ可哀そうなんです、もちろん学生も可哀そうですから仕方ないかもしれませんが。

しかしそれは言えばアメリカンフットボールっていう協会があって、その境界が学連ですね、学生連盟があってそれがまあ正当な理由で処分するわけですから、それはいいんじゃないかと思うんですが。

それ以上にですね、その関係者を痛めつけたりするのはちょっと行きすぎだと。

悪い人でも痛めつければよいわけではない

まあ監督にもコーチ、監督コーチもすごく悪いかもしれませんが、人間は悪い人だから徹底的に痛めつけていいってんじゃないんですよね。

これ他のことでちょっと言ったことがあるんですけども、秘め事のことだったかもしれませんが。

やっぱりそこにはですね、人間の情っというものが必要なんですね。

学生も苦しんだ、それはそうだ、だから罪はある、としますね。

したら学園が処分する、これは仕方がないとしますね。

それ以上に本人を痛めつけたり、私はこの前さっき、昨日かなんか言ったんですが、日大っていうそのものが教育が間違っているとかですね。

それから理事長は悪い人だとか、それはちょっと行きすぎだと。

いや、理事長は悪い人かもしれませんよ、僕知りませんが。

したら理事長が悪いことしたことを具体的に示さないといけない。

日大アメフト問題と理事長の責任範囲

今度の日大のアメリカンフットボールの不祥事っていうのは、指導に基づくのはもう少なくても私は理事長の責任範囲にはないと思うんですね。

理事長ってのは、法人を代表するからすべての責任があるっていうのは言い過ぎなんですね。

そしたらもうすべて理事長のハンコをもらわなきゃいけないんですよ。

あの学生にこういうふうに言ったてのも了解取らないといけないんですね、そうじゃないんですよね。

まあ特に大学の場合には、教授が学生にいうのは教授に任されているのであって、それで問題が生じれば教授の問題だけども、必ずしも学長とかまして理事長なんかが責任あるわけじゃないんです。

それはですね、ある意味で非常に封建的な考え方なんですよ。

すべてその偉い人だけに責任がある、いや偉い人ってその偉くないですよ別段、職務を分担しているだけですね。

私昔会社にいる時にある役員、いや重役から武田君こうしろって言われたことあるんですね。

それに対して私が、まあ私は研究長としてそれはできません。

私の研究の感覚と違います。

だけども、職務だから私を解雇してくれれば解雇というか、解任してくれればですね、研究所長、それは仕方ありませんって言ったことがある。

ちょっと極端。

私が若気の至りで、極端ではあったんですがやっぱり、現代社会っていうのはですね、一人一人の人が、一人一人の職務を守ると、それを全体的に監督する責任はあると。

しかし、監督は監督できる範囲の監督責任しかないんですね。

任命責任の範囲

麻生さんが任命責任ってのを問われたことがありますが、私は任命責任とは任命したときにわかることじゃないのだ。

だから任命したときは非常にちゃんとした人で良かったんだけど任命したあと、2年経ったら性格が変わったりなんかしたりしてですね、犯罪を起こしたと。

それは任命責任じゃないんですね、そこまではやっぱり見えない、人間ですから。

そして権力をですね、一人の人に集中せずにいろんな人が分担して責任を負う。

その範囲を明確にしておくっていうことが必要だと思うんですね。

その意味では現在ですね、メディアが自分が放送する権利を持っているとか、新聞を発行する権利を持っているってことを逆手にとって、まあこの記者会見における記者の発言の感じもですね、完全にパワハラですよ。

自分は記者なんだ、お前は庶民じゃないか、俺はお前をやっつけてやるんだ、正義の味方だ。

これが一番危ないと思います。

 
 
 

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