SEXと幸福!日本人が幸福を感じない理由!日本人の平均的な幸福!科学的幸福論 その3 武田邦彦

種の連続を妨げるSEXへの罪悪感

だから人間の人生でかなり深く考えなきゃいけないのが、子供を作るために、つまり人間という種を連続させるために1番大切な性欲が、罪悪感を伴っているということですね。

そして、もちろん幸福論ではそういう背景がありまして、ほとんど性については述べられないんですよ。

もちろん先ほど言いましたように、人生の幸福と人間の幸福の生きざまというものを教える、キリスト教とか仏教とかそういったものでも、ややそういう性的な活動というものを罪悪感のあるがごとき扱うことが多いんですね。

さすが、イエスキリストが誕生されて700年経って出てきた、イスラム教ではもう少し現実的で、僧侶というのはもともといないんですけれども、子供を作る行為をあえていけないこととは言ってないんですね。

不労所得は禁じられておりますが、一応世俗的なことで、それまでの宗教がどちらかというとやや罪悪感を持って話していた、子供を作るための性欲だとか、それから楽な生活をするためのお金の問題と言ったことを、より合理的にイスラム教なんかはなっているわけですね。

疑問を感じる宗教家の幸福論

しかしこういう状態を見ますと、ここまでずっと幸福というのを考えてきたわけですけど、

いわゆる世の中にある宗教、もしくは哲学者だとか、いろいろ社会学者がお考えの幸福論というのは、科学的に合理性を持っているかという点で、ちょっと疑問を感じざるを得ないわけですね。

というのは、我々が自分で考える、自分の頭で考えるものというのは、既にそこで人間の進化の歴史とか、前の人間のもとの動物の時の倫理観とか、そういうものを引きずっているわけですよね。

それがこのセックスなんかに1番強く表れて、人間という種が継続するのは倫理的に絶対正しいわけですよね。

そうしないと、子供が産まれなかったら、50年くらいでたちまち人類はなくなっちゃうわけですから、100年で必ずなくなるわけですから。

だから、それはセックスが悪いことであるはずがない。

だけども、人生の幸福を教えるための宗教が、妻帯、坊さんとか神父さんの妻帯を禁止する、つまり神父さんと坊さんというのは、宗教的にいいことをやる。

いいことをやる人が、人類は絶えてもいいんだということになるんで、非常に大きく矛盾しているわけですね。

これはたまたま、今日引き合いに出したセックスというものを取れば、おかしいなということになるんですが、

実は我々の感覚とか、何がいいとか何が悪いとか、そういうふうに言っている中には、全然我々が考えているような、暇な人だけというか、生きることそのものの幸福ではなくて、暇な人だけの幸福、つまり生物的にはあまり関係のない幸福を、ただただ追求して、

それが頭の中で考えるものですから、あるいはセックスは非道徳的であるとか、おそらくそういうことがいっぱいあると思うんですね。

他の動物を圧迫して生きる人間

例えばお金を貯める、お金持ちになるのは非道徳的であると言われることもあるし、他人を圧迫してはいけないという人もいるし、しかし動物というのはすべからく他の動物を圧迫しているわけですよね。

だから他の動物を圧迫することによって、その種を保つわけですね。

人間は現在のところきわめて強力な動物種なので、他の動物を保護しようとか、保護するという言葉自身がやや上から目線なんですが、自然を大切にしようとか、そういう生意気なことを言っているわけですが、

それは人間という種が特別に強くて、もうすでに現在、どんなに人間と他の動植物を平等にしようと思ってもそうならないという満々たる自信が、

人間の自分勝手な幸福論

結局自然を大切にすることがいいことだとか、他の動物を保護することがいいことだとか、絶滅しそうな動物を積極的に保護しなきゃいけないといった、完全に上から目線の議論になってくるわけですね。

その意味では、我々がいろいろ考えている、幸福、及び幸福は何かということについても、

生物学的に我々が規定された範囲内でもがいているとか、それから非常に上から目線で、悠々たる生活をしている、生活に余裕があり暇がある人だけの特有の倫理観とか、そういうものに依存している可能性があると思うんですね。

またちょっとあとで展開いたしますが、実は幸福というのは人によって違うわけですね。

人によって違うとは何かと言うと、落ちこぼれた場合の安全策とも取れるんですよね。

こんなことを言いますと非常に武田は冷たいと言われるんですけれども、科学というのは、とことんきちんと考えて、それにも負けない精神力とか、自分の信念とかそういうのを持つということが大切なわけですね。

事実に切り込むにはどうしても胆力が必要だと、そんなふうに思うんですね。

単純な幸福論は成り立たない

私の感じでは、いわゆる単純な幸福論というのは、当然だけど成り立たないと。

単純な幸福論であれば、普通の人だったらお釈迦様、ちょっと運が悪い人はイエスキリスト様の言っておられることを反復理解したら、だいたいそれで幸福に達するというわけじゃないかもしれませんが、そういうふうになるし、

幸福に対する見方とか考え方というのは、人によってものすごく違うので、一般的にそれが幸福であるという状態を特定することは、非常に難しいということであります。

分布の問題もあり、いろんな問題がそこに潜んでいる。

科学、サイエンスとして考えなければいけない、哲学として考えなければいけない、もしくは人間として考えなければいけないということが非常に多いということが、当たり前ですけどこれまでの検討で分かったわけですね。

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