【日本の歴史】真実の日清戦争!日本と中国が戦った理由!渡部昇一

戦争の天才 立見尚文

例えば、立見という人がいるんですね。

この立見尚文という人は、桑名藩士なんですね、幕末の頃の。

桑名藩士で桑名雷神隊といのを作ってですね、これは幕府方ですから、散々、天皇軍を悩ますんですよ。

桑名藩が降参してからは、雷神隊を引き連れて新潟に行きまして、長岡藩で戦いまくってですね、山県有朋の軍隊を散々悩ますんですよ。

そしていよいよ長岡もダメだという事になると今度は会津に行って、また会津で奮戦して会津がダメだったらまた今度、庄内藩に行って…というような人なんですね。

そのうちに明治維新になりましたので、その人は国に帰って、まぁ下級関連の仕事をしていました。

で、面白いのはですね、西郷隆盛の西南戦争が起こりますとですね、それをちゃんと覚えている人がいてね、

「確か、立見という戦争がべらぼうに上手い男がいたな、あいつを探し出せ」

ていうんで、探し出してきてですね、そして軍隊を預けるんですね。

この立見軍というのがやっぱり戦争がうまくて、最終的に城山で西郷隆盛を殺した、殺したという言い方は悪いんですけれども、殺した所の突入した軍隊は、立見さんの所の軍隊なんですよ。

これは、だから幕府の軍隊なんですよ、生来は。

この立見さんは非常な天才でね、日清戦争でも素晴らしい戦いをするんですね。

あの、敵がいっぱいいる所に進むんだけど大丈夫か、と言うとね、いや大丈夫だと。

「あの距離とこの距離だと、人間はこのくらいの長さで見えるはずだ。この長さに当てるだけの鉄砲の能力は向こうには無いから大丈夫だ」

というような計算でね、進んで、大勝利するんですよ。

というような事で、戦争の名人がいましたね。

向こうの方は、そういうのがいなかったとみえて、軍隊だけは数は多いんだけれども、散々ぱら負けちゃったわけです。

日清戦争 講和条約の悲劇

それで、講和条約と言う事になりました。

この時はね、向こうの総理大臣、李鴻章(りこうしょう)が、今の日本に来てですね交渉をするわけですが、春帆楼(しゅんぱんろう)という料亭と言いますか宿屋と言いますかね、その時に日本の血気はやったやつがですね、警官なんですが、李鴻章を撃ったんですよ、憎い奴だというわけで。

そのためにね、伊藤博文なんかは、酷く迷惑するわけです。

せっかく勝ってね、和平交渉で来たわけでしょ。

絶対に手を出してはいけないですよ、外交に来た人には。

それで、今の下関の春帆楼で会談している時にですね、まぁ、その撃った人はですね、愛国心に満ちたんでしょうけどね、撃っちゃったもんで、後は日本は随分要求したい事を、皆取り下げないとならなかったんです。

世界が見ている所でですね、向こうの代表を鉄砲で撃ったんじゃね、これはもう面目が立ちません。

それはまぁ、幸いに死なないでね、くれたんですけれども、外交官、または外交使節に手を出すと、外交はもの凄く損をするんですね。

という事でまあ、中国もそれで損するんだと思いますよ。

日本の外交施設をぶっ壊して、まだ謝っていないでしょ、これは世界中で知られるわけですからね。

それから、日本の首相と副首相が会う事にして、格の低い副首相が直前に約束を破って、国ごとで忙しいから帰っちゃったなんてね、これなんかも世界中に広がります。

そうすると、中国はこれはまだ野蛮国という事になります。

これは、徹底的に宣伝しなければならないと思うんですけどね、まぁそれは別として。

日本でも当時はそういう事が分からなくてね、ひたすら敵は憎むべきと、いうような単細胞がいて、まぁそういう事もありました。

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