明治維新の闇を分かりやすく解説!

明治維新の闇を分かりやすく解説

本日は、近代日本の始まりについて、共有して行きたいと思います。

現在の日本の色々な問題を考える場合、始まりというのは、一つは大東亜戦争ですね。

これについて、考えなければいけないのですが、更に、近代日本というものを考えた場合、まず、幕末、明治維新。

そして、明治における近代国家作りが、色んな議論の俎上に乗るんですね。

私が日頃感じている事は、この近代日本の始まりについて、認識について、思考停止があるのではないだろうかと。

それでですね、近代日本の始まり、幕末明治維新だろうというのは、これは異論はない所ですね。

そして、本当のきっかけはなんだろうかと。

それに導いた、号砲を鳴らしたのは、なんだろうかと。

これは、ペリーの黒船来航であると。

これも、まぁまぁ、共通認識になっているんですね。

そして、私が、これからお話する事は、アメリカの専門家では、170~180年前から常識なんです。

それから、戦後の日本でも、数十年前に、きっちりとした検証、研究が、地方大学等でなされているんですね。

そして、関連した書籍なんかも出ていますが、ちょっと、本質に焦点を当てて、お話をさせて頂きたいと思いますね。

まず、ペリー来航の時の有名な狂歌。

1853年7月ですね。

「泰平の、眠りをさます上喜撰、たった四盃で、夜も寝られず」

これは、有名ですね。

この狂歌、当時作られたんでしょうけれども、私が思うにですね、あまりにも多くの日本人が知っていると。

教科書も、欄外かなんかに出ているんですかね。

子供たちもみんな知っていますよ。

殆どが知っていますよね。

私はね、これは、プロパガンダだと思ったんです。

プロパガンダ。

私がお話しているような内容は、殆ど教科書には載っていない。

ところが、これは、殆ど、学校で教えられているわけですね。

これは、なんなんだろうと。

そういうものこそ、プロパガンダ臭いんですね。

「泰平の、眠りをさます上喜撰」

まぁ、ずっと鎖国をしていましたと。

上喜撰というのは、お茶であると同時に、蒸気の軍艦でやって来たわけですね。

実際、黒船4隻で、うち、蒸気船は2隻なんですけれども。

当時のアメリカでも、最大の軍艦を、まわしてきているんですね。

そして、「たった四盃で、夜も寝られず」

たった四隻で、日本中が大騒動。

幕府も含めて、てんやわんやになっていてですね。

これの意味する含意としては、眠りを貪っていたと、日本は。

文明に接する事もなくね。

そして、大砲を突き付けて、やって来たわけだけれども、起こしてくれたと。

どっちかというと、開国をさせてくれたと。

目覚めさせてくれたという含意ですよね。

昔の左翼系の思想だと、いわゆる、封建時代は、極めて暗い、よくない時代というね、それのきっかけだったというイメージを刷り込んでいますね。

そして、誰に、ありがとうかというと、私は、別に、下田の観光大使でも、なんでもないのですが、マシュー・ペリーという事ですね。

ペリーがそんなに偉大な軍人であったのかと。

日本の、さも恩人であるかのような、今、偶像を作られているわけですけどね。

これがですね、私は洗脳だし、思考停止だという風に、ほぼ、断言できるんですね。

じゃあ、その隠された含意。

本質が何かという事ですが、本質は、ロスチャイルド家が、ロスチャイルドグループが、日本を「開国」させたという事ですね。

この前後から、江戸時代から、日本はどう近代に入って行くか。

この中でも、もちろん、紛争があり、殺し合いがあり、戊辰戦争もありね、そして、近代日本作りをやって行くわけですけれども。

ここの観点がないと、意識がないと、全く思考停止の議論に、なってしまうと思うんですね。

思考停止という、司馬史観というね。

そこでみんな、あれが、割と真実みたいな。

実際は、全然違うんですね。

こういう私も、小学校、中学校の頃は、司馬遼太郎の本をむさぼり読んで、血沸き肉躍っていた方なんですよ、実は。

俺も国士になってやるって言って。

司馬遼太郎の本を読んで、恥ずかしながら。

ところが、最近は研究が進んできましたが、あの坂本竜馬だって、ある見方をすれば、グラバーの使い走りであったと。

商人ですよ。

いわゆる、下僕といっちゃあ失礼だけれども。

そういう事も、やっと少し、チラチラ出始めたと。

100%、それで語るというは、私はどうかと思いますが、いずれにしても、当時の国際情勢を踏まえて。

ロスチャイルドに近い、ジャーディン・マセソン商会。

そして、その下にあったグラバーが、南北戦争の兵器のお古を持ってきて、坂本竜馬に、薩長に売らせて。

それが戊辰戦争で使われたというのは、歴史的事実ですね。

だから、「日本を洗濯し」というのは、とんでもないですね。

坂本竜馬のね。

あっちの世界の選択、いわゆる手先といったら失礼だけれども。

まぁ、そこに生きがいを感じ、そして、進取の気性があり。

日本に、株式会社を持って来たりだとか、国際法があるという事で、周りに宣伝したりね。

坂本竜馬は、まぁ、元気よくは、やっていましたけれども。

亀山社中っていうのをやったのも、外国との商社ですよね。

坂本竜馬が、使い走りだとすれば、ペリーも使い走りなんですね、実は。

ここが、大事なんですね。

ですから、歴史の本質を掴もうとすれば、ペリーの写真はいらないんです。

日本の開国について、本質を論じようとすれば、ペリーの写真はいらなくて、ロスチャイルドの写真が必要なんですね。

ちょっと具体的に見て行きたいと思うんですけれども、まず、突然に、ペリーの4隻の黒船がやって来て、というイメージが刷りこまれていますが、これは、全くのデタラメなんですね。

ご存じの方もおられると思いますけれども、具体的には、ペリーがやって来たのは、1853年ですけれども。

その近年だけを見ても、例えば、1845年に、アメリカの捕鯨船が、まず、浦賀に停泊。

ご存じのように、捕鯨が、アメリカの主要産業の一つだったんです。

脂ですよね。

当時は、石油が出る前って、明かりは、鯨の脂だったんですね。

そして、アメリカは、大西洋も太平洋も、イギリスを凌いで、捕鯨量が盛んになっていったんですけれども。

特にこの頃、いい漁場は、日本近海だったらしいですね。

だから、いっぱい来ていたという事ですね。

それから、1846年7月ですね。

ペリーが日本に来る7年前。

アメリカの、東インド艦隊司令長官、ビドルという人。

これは、だから、ペリーの前任の前任くらいですね。

合衆国の公式訪問として、アメリカ海軍最大級の帆船軍艦を含む2隻で、江戸湾に侵入しているんですね。

で、浦賀沖に停泊していると。

で、オランダ通詞を連れ、乗船して来た幕吏に、幕府の役人に、通商条約締結交渉を申し入れていると。

ただ、この時は、7日間待たされた上で、あしらわれてですね、拒絶の返書を受け取るという事ですけれども。

これは、ペリーが来る7年前ですね。

いかに、ペリーが突然ではないかと。

結構、各国、ロシアとか、色々と来ているんですよね、実際は。

長崎には、当然、バンバン来ていますしね。

それから、1849年4月には、アメリカのやはり帆船軍艦が、長崎湾に侵入して、幕府に保護または収監されていた蝦夷地沖での、アメリカ捕鯨船からの脱走船員13名を引き取る事に成功という事ですね。

それから、1849年、5月末から6月には、イギリスの、やっぱり帆船軍艦が、浦賀水道及び下田の測量を強行しているんですね。

これは、ペリーが来る4年前。

それから、ペリーが来る前のトシには、1852年ですけど、オランダ経由で、知らせているんです。

大艦隊を連れて、ペリーが日本に行くよって。

だから、幕府は当然、事前に知っているんですよ。

だから、突然やって来て、大騒ぎっていう狂歌は、誘導ですね。

蒸気船がそばに来たんでね、一般の人々はそれを見て驚いたというのは、あるでしょうけどね。

これがまずは、前座なんですけれども。

ここから、本題に入って行きますね。

ペリーは使い走りだと。

誰の使い走りか。

それは、さっきお示しした、財閥の一族の使い走り、そのグループの使い走り、という事なんですが。

ちょっと、その具体例を見て行きますね。

1845年2月、ペリーが来る8年前。

アメリカ下院の特別統計委員会が開かれまして、そこの委員長プラットという人が、決議案を提出しているんです。

その決議案の内容をお話ししますと、

「アメリカの通商の伸張に向けて、倦まず弛まず努力することは、我が国、農業及び製造業と通商が繋がっている以上、合衆国の全般的利益にとって、寛容なるが故に、」

だから、農業の輸出を考えているんですよ。

1845年に。

製造業、工業品の輸出も考えているけれども。

「かかる政策方向推進のため、日本帝国及び朝鮮王国と、通商協定を遂げるべく直ちに措置が講ぜられるようここに勧告するものである。」

1845年ね。

ペリーが来る8年前。

ちゃんと予定しているんですね。

次、日本との交誼が、願わしい所以として、「5000万人超える人口」

実際は、3000万人だったんですけれども。

日本の人口の事ですね。

当時の合衆国の、概ね約2倍」

アメリカは、まだ人口が少なかったですからね。

「世界各国民の間で、畏敬されて然るべき程の文化と国力を兼ね備えている」

兼ね備えている日本だったんですね。

「アメリカ政府が、現在、外交、通商関係を続ける国々の幾つかより、文明が進んでいる」

「工芸の興盛、水陸交通機関の発達と国内産業の著しい発展、山腹に至るまで、隈なく耕作されている勤勉無比の農業、平時12万、戦時は40万以上とされる兵力、世界最大級の都市江戸」

こういった日本と、アメリカは、通商を開くべきだという事を、1845年、プラットという下院の委員長が、決議案として提出しているという事実ですね。

よく調査されていますよね。

このプラットにですね、色んな調査とか、研究をですね、いれ込んだのは誰か。

もっと言うと、プラットに、こういった決議案を提出させたのは誰か。

それは、ロスチャイルドの代理人なんです。

具体的に。

そして、ロスチャイルドとしては、アメリカ国民の税金を使って、アメリカ海軍を使って、そして、身内に常に取り込んでいたペリーを使い走りにして。

人の国のカネを使って、日本を開国させようという事ですよ。

そして、ビジネスの成果は、全部貰うと。

私が今言った事は、本当かどうかという事なのですが。

ロスチャイルド家の代理人に、アメリカ合衆国、ニューヨークに、アーロン・パーマーという人がいたんですよ。

この人は、弁護士なんですけれども、ただの弁護士じゃなくて、ロスチャイルド家のビジネスの戦略的な代理人だったんですね。

で、アーロン・パーマーというロスチャイルド家の代理人は、太平洋商圏とか、日本海国、対日条約の構想を、具体的に検討したんです。

凄い奴だと思うけれども、それは我々が洗脳されているからであって、普通、プロジェクトとか、ビジネスをやるとしたら、当然ですよ。

調査をしてね、積み上げて行って。

そして、このアーロン・パーマーは、アメリカの議会とか大統領に、ロビー活動を展開して。

そして、提言をしているんですね。

その時の彼の活動の提言書等は、公にも出版されていますから、オランダ語に訳されて、日本にも入っていたんです。

だから、十分に動きは分かっていたんですね。

ですから、勝海舟なんかも、ほぼ全て、見えていたと思いますね。

あの辺の人達はね。

知らないのは、戦後の日本人。

1842年から、1851年ですね。

当時のポーク大統領とか、キング下院議員、クレイトン国務長官などに、このアーロン・パーマーは、アメリカ大陸横断鉄道の提言とか、太平洋蒸気船航路開設を提言。

だから、スケールが大きいんですよ。

大西洋はもう取ったと。

アメリカも、西へ行け、西へ行けという事で、インディアンを追い出して、アメリカ大陸も、ビジネス的に制覇して、大陸横断鉄道を通そうと。

そしてその先、更に西に行って、太平洋にも蒸気船航路を作ろうと。

その太平洋と先は、シンには、もうアヘンで入って行っていますから。

イギリス経由で抑えているから。

太平洋ルートは、アメリカを使おうと思ったんですよ。

アメリカは、力がこれから出て来る国だからという事ですね。

そして、このアーロン・パーマーは、日本開国計画書というのを提出しまして。

それが、残っているんです。

具体的に、日本開国計画書というのが、提出されているんです。

その中でですね、アーロン・パーマーは、江戸幕府がグズグズ言うんだったら、開国するために、最後通知を突き付けて、江戸湾を封鎖すると。

封鎖っていう事は、米とか食料品は、船で運んでいましたからね。

それを封鎖すれば、江戸も干上がると。

と共に、飴と鞭で、献上品ですね。

アメリカ合衆国が、こんなに西へ西へと発展して来た地図だとか、電信機とか、ミニSLとか、科学の最高レベルにいっているという事を示すという意味もあって、献上品を差し上げるとかね、将軍に。

具体的な、戦略、戦術を、日本開国計画書で書いているんですね。

で、当時のフィルモア大統領に、日本への、艦隊派遣を要請しているんですね。

それと共に、1848年には、まだ日本と関係ないペリー。

ペリーが、アメリカにおける蒸気船開発の責任者になったんですね。

このペリーを、蒸気船開発の担当責任者に持って行っている。

なんか、力が作用したんでしょうね。

で、マシュー・ペリーは、そののち、蒸気船海軍の父と言われるんですけれども。

1849年~1852年に、この日本開国、ロスチャイルド家の代理人、アーロン・パーマーが、アメリカでロビー活動をやった日本開国が、国家事業化するんです。

成功するんですね。

そして、アメリカの東インド艦隊の、前任者。

当時の責任者がいるんですね、長官がいるんですけど。

それを解任して、ペリーを指名するんですね。

これはなぜか、という事ですけれどね。

ペリーは、ロスチャイルド一族に取り込まれるんです。

で、1852年3月、ペリーが、今言った前任者をですね、言いがかりをつけて解任しまして、政府が、海軍長官が。

そして、ペリーを持ってきて、ペリーが、東インド艦隊長官に就任すると。

たまさかですけれども、ペリーの本当のお兄さんは、海軍の英雄なんですね。

英米戦争の。

それから、ペリーの義兄、奥さんのお兄さんは、最有力の民主党の上院議員だったんですね。

ペリー一族って、そういう一族なんですね。

で、海軍長官の要請で、ペリーに、日本に対する情報提供がなされたんです。

それが、例えば、オランダが長年蓄積した情報であるとか、決議案を書いた上院議員に教え込まれた情報であるとか。

つまり、アーロン・パーマーが、蓄積した莫大な情報を1852年3月から、ペリーに教え込んでいったんですね。

ですから、ペリーは、教え込まれる前は、軍人として、素朴な日本観を持っていたんですけれども、ここで変わるんですね。

で、教え込まれた事が、日本の下田に来てみたら、やっぱりそうだったという事ですね。

これだけではなくて、ロスチャイルド家の代理人には、ニューヨークに、オーガスト・ベルモントっていうユダヤ人がいたんですね。

彼は、ビジネス上のユダヤ人ですね。

彼わですね、これも、ロスチャイルド家が仕組んだと言われているんですが、アメリカが大不況の時にやって来てですね、そして、不況下で、色々な所の株を買って、ビジネス的にのし上がって行くという事ですね。

アメリカのビジネスを占めて行くと。

そして、産業をある程度乗っ取り、金融も乗っ取り、そして、政治にも入って行って。

民主党の最高幹部になって行くんです。

南北戦争の前辺りです。

南北戦争の、仕掛け人とも言われていまして。

リンカーンとも、色々とあったでしょうと。

という事なんですが、このオーガスト・ベルモントが、アメリカに来て、まず最初にやった事は、ユダヤ人の、若い、オーガスト・ベルモントが一人でやって来て、アメリカのビジネス界とか、上流階級に、いきなりは食い込めないと。

まずやった事は、アメリカでの一流のファミリーの中に入り込む事。

彼が選んだのが、ペリー一族なんですよ。

そして、これは伝えられている話ですが、ある日、劇場に行ったら、劇場の前で、男性たちに絡まれていて、困っている女性のグループがあったんですね。

で、ベルモントは、わが身を顧みず、その男性たちから、女性たちを救い出したんです。

その女性の中の一人が、マシュー・ペリーの娘だったんですね。

そして、オーガスト・ベルモントは、その絡んだ男性の一人と、決闘までしているんですね。

で、決闘に勝ったらしいんですが。

娘さんの方としては、たまらないですよね。

命がけで救ってくれたと。

で、結婚したんですね。

という事で、まぁ、偶然ではあるかとは思いますがね。

その、オーガスト・ベルモントといのは、ロスチャイルドグループの代理人ですから。

その、ベルモントと結婚をした娘のお父さん。

マシュー・ペリーが、偶然、前任者を解任の上、日本開国の艦隊の長官に就任したんですね。

1852年.

ベルモントが娘と結婚したのが、1849年。

ペリーが、日本開国の責任者になったのは、1852年ですからね。

という事ですね。

で、オーガスト・ベルモントは、さっき言った、アーロン・パーマー、弁護士と、ビジネス仲間でもあるという事ですね。

で、アーロン・パーマーもベルモントも、日本についての情報は、オランダからいっぱい貰っているんですね。

だから、鎖国と言っても、厳密な意味では、鎖国では全くなかったんですね。

日本も、今の日本人が見たら驚くほど、出島から、国際社会に対する膨大な情報を取っていたし。

明治維新の最初の頃の官僚は、みんな幕閣なんですよ。

という事は、みんな、それを知っているから、優秀だったんですよ。

情報と、対応能力があったんで、薩長を雇わざるを得なかったと。

よく、幕府の人間が、明治維新の役人というか、有力者になっているけれども、そういう所ですよね。

逆に、彼らは、出島を通じて、日本の情報を取っていたし、スパイもいて。

例のシーボルトも、スパイみたいなもんですからね。

正確な地図も、伊能忠敬の地図も、全部、出て行っちゃっているわけですね。

で、ベルモントは案の定ですね、1853年にはオランダに派遣された、オランダのアメリカ領時になっているんですね。

だから、アーロン・パーマーとか、ベルモントをオランダにセットしたのは、明らかに、ロスチャイルド家。

ここで、だから、全部、役者が揃って。

ロスチャイルド家がいて、その代理人のアーロン・パーマーがいて、そして、オーガスト・ベルモントがいて。

そして、アーロン・パーマーの使い走りであり、オーガスト・ベルモントの義理のお父さんであるマシュー・ペリーが、ここでやっと1853年、浦賀に来るという事ですね。

そして、その翌年1854年3月には、不平等条約の始まりですね。

日米和親条約が、締結されると。

私が言った事がデタラメではない証拠に、1855年には、このアーロン・パーマーに、アメリカ政府からですね、日本開国の成功の報奨金が出ているんですね。

当時のアメリカから見ても、どこからどう見ても、仕掛け人はペリーじゃなくて、アーロン・パーマーであり、ロスチャイルドなんですね。

アメリカの議会というのは、非常に常識的、良識的で、確固たる意志を持った議員が多くて。

その委員会の議論を聞いているとですね、なかなか決まらなかったんですよ。

なんで、ロスチャイルド家のために、アメリカがカネを出して、アメリカの税金を使って、アメリカの海軍の艦隊を出してね、手間をかけて、日本を開国させなきゃいけないんだ、という議論があったらしいですよ、やっぱり。

ロスチャイルドの代理人が、ウロチョロしているわけですからね。

仕掛けているわけですからね。

それはもう、明々白々で。

知らないのは、戦後の日本人だけと。

それはずっと、大東亜戦争から続いていますからね。

そして、ここからですね、ちょっと感動的な話に移って行くのですが。

じゃあ、ロスチャイルドグループは、日本をどう見ていたのかと。

ロスチャイルドの代理人の、アーロン・パーマーのクレイトン国務長官への手紙。

それから、そこに、さっきの提案書がついていたんですが。

それのちょっと、本質的な部分の抜粋ですけど。

1849年4月、ペリーが来る4年前ですね。

「日本は、東洋のイギリスとなるであろう」

「日本は、アメリカとの国交を持つことで、蒸気船建造とメンテナンスの知識を得ることが出来る。最新の陸海兵器を保有できる。そうすれば、外国勢力の侵略から国を守る事が出来る。」

「陸海軍を刷新し、汽船、鉄道、電信等の利用を促進すれば、日本は東洋の一等国に変貌できる」

という見方だったんですね。

で、具体的な事を色々と言っていまして、大和民族はね。

「エネルギッシュな民族で、新しいものを同化する能力は、アジア的というよりも、むしろヨーロッパ的ともいえる」

「西洋諸国の芸術や、新技術に対する好奇心が極めて高い」

「名誉を重んじる騎士道のセンスを持っていて、他のアジア諸国と全く異なる」

特に、シナを意識していたみたいですね。

支那とは異なると。

支那は、当然、差別語ではなくてね、チャイナとかシナっていのは、英語で昔から言いますしね。

実際、支那ですからね。

「アジア諸国にみられる意地悪いへつらいの傾向とは一線を画し、行動規範が男らしい、名誉と信義を基本としている」

これも、アジア諸国というのは、どうも支那の事をイメージしているらしいですけどね。

「盗難や経済犯罪は極めて少ない」

これは、今にも繋がりますね。

「同質な民族による独立を二千五百年も維持し、同一の言語、宗教を持っている」

「支那に隷属することなく、外国に侵略されたり植民地化されたことがない」

随分と正確に。

立派なもんですよ。

これを、1849年の4月に。

今の日本人が認識していない事を、この時代のこの人たちが、やっていたというね。

ロスチャイルドの代理人が、こういう風にアメリカ議会に、提言したという事ですね。

日本開国計画書の原本、ちょっと、冒頭だけ読むと、

Plan for opening Japan,

日本開国計画ね。

submitted to the government of the United States,

合衆国政府に提出されたと。

by Aaron Haight Palmer, Counsellor Supreme Court of the United States,

最高裁判所の顧問みたいになっていたんですね。

ロスチャイルドの代理人が、アメリカの最高裁判所の顧問みたいに。

in a letter to Hon. John M.Clayton, Secretary of State.

クレイトン国務長官に提出されたと。

手紙に添付されているという事ですね。

ここでまた、驚くべき知恵というか、歴史は大事だなと思っているんですけれども。

日本開国計画書の出だしの所は、こうなっているんですね。

「背景、たった今、受け取ったばかりの情報を同封いたします。6月に広東において、S.ウェルズウィリアムズ氏が収集した中国情報です。4月に米国戦プレブルのグリン司令官が、長崎を訪れ、ニュー・ベッドフォードの米国戦ラゴダ号の生き残った乗組員15人を救助したいという報告が含まれています。ラゴダ号はオレゴン州のラナルド・マクドナルド号と一緒に難破し、日本の劣悪な刑務所に、ほぼ12カ月間拘留されました。」

という事なんですけれども、要するに、難破船の乗組員が、日本から虐待を受けたという事が、この開国計画書の出だしになっているんですけれども。

これが、事実じゃないんですね。

これは、プロパガンダで。

実際は、日本は、丁重に、丁重に扱っているんですね。

じゃあ、なぜと。

まず、幕府による漂着乗組員虐待のプロパガンダにより、日本開国計画への、議会での反対論を抑えようとしたと。

アメリカ議会が、反対していたんです。

我々と一緒、常識的なんです。

議会の人達は、良識的なんです。

アメリカ議会の人。

今でもそうですけどね。

どういう事かというと、当時のアメリカは、難問が山積していたんです。

1850年前後、ここから10年間、奴隷制問題。

それから、オレゴン州とか、カリフォルニア州を併合する問題。

それから、広大な西部地域を編入してきましたから、国内開発の問題。

予算があったら、そっちに使いたいですよね。

そういう事がある中で、民間のビジネス界だと、ロスチャイルド家が、太平洋とか、極東のビジネス開拓するのに、なんでアメリカの国費を使わなければいけないんだっていう事ですね。

これと同じ事が、昭和16年に起こりまして。

なんで日本にちょっかいを出すのに、アメリカの軍隊を使わなければいけないんだ、って議論があったわけですよ。

その時、昭和16年に、解決を与えたのは、真珠湾奇襲。

戦争を、やるつもりは無かったですからね、アメリカの国民の大多数はね。

この時は、こういうプロパガンダで、日本人が虐待をしているという事で、かなり乗り切った面があるというのは、歴史が物語っている。

ずーっと同じなんですね。

歴史は繰り返すんですね。

ペリーわですね、このロスチャイルドの代理人から教わるまでは、素朴な考え方、素朴な軍人でありますからね。

こういう事ですね。

1851年に、ペリーの、グレアム海軍長官あての手紙があるんですね。

そこの抜粋ですけれども、ちょっと読んでみますと、

「日本人は、不実で信頼しがたいが、勇敢で気前が良く、親切で、度外れに好奇心が強く、遊び好きだ。幕府が人民に対し、どんな、賤しいものでも行き渡る完璧な諜報組織網により、非常な権勢を揮う」と。

「誰しも、・・・終始、びくびくしながら暮らしている」

ペリーの認識って、こんなもんだったんですね。

それから、

「ほんの少数を除けば、日本人は蒸気軍艦を見たことが無く、この種の民は、周知のごとく、いかに立派な議論であれ、議論を耳にするより、目で見る方がずっと影響を受けやすい。」

「だから、帆を張らない怪しげな軍艦が突如出現し、風にも潮にも頓着せずに、音を忍ばせて港の方へずんずんと進んで来るのを見れば、彼らは皆、度肝を潰し、周章狼狽するだろう。」

「こうした異様な艦船の出現自体、彼らにとっては全く不可解で不気味だが、加えて、現代火器の適例たる重砲、破裂弾、ロケット弾、その他、アメリカ人の発明の才が作り出した様々な装具や、いかめしい機械装置を誇示すれば、不安や畏怖の念を生じせしめ、友好を物にする上で、この100年間に外交使節の成し得た全てより資する所、遥かに大であろう。」

軍人ですからね。

俺の腕の見せ所はここだと。

単純ですよ。

「『親近感よりは、恐怖心に訴える方が断然多く得られよう』とは、シナ人について言われてきた至言だが、日本人にも、ドウ程度、当てはまるだろう。」

ペリーは元々、シナ人も日本人も、一緒だって見ているわけです。

さっき申し上げたように、ロスチャイルドグループは、全然、情報の質が違うと。

「対日遠征は、たといその結果、日本側と局地的に衝突をきたそうとも、正当だと弁明することができよう」

衝突しても構わないと。

「日本の海岸に打ち上げられる外国人は、みな、虐殺される」

これはだから、ペリーは、プロパガンダを信じ切っているわけですね。

「謂われなき国際礼譲違反」

「成功を期して、最初の遠征は、飽く迄も、海軍の遠征であらねばならぬ」

「武力の誇示により、いったん道が開けば、当然の成り行きとして、貿易が始まり、したがって外交官任用の運びになろう」

こういう単純なペリーなんですが、ペリー提督日本遠征記には、下田に来てみて、自分の考えていた事は単純すぎたと。

レベルが低かったと。

やっぱり、ロスチャイルドのアーロン・パーマーに教わった通りの日本の民度の高さに驚いて、残しているんですね。

ちょっと、アーロン・パーマーを整理をしますと、

ニューヨークの弁護士で、ロスチャイルドの代理人ですが、1829年に、アメリカの国内、国外請求権法律事務所を開設。

アメリカの蒸気船は、当時のトップレベルの技術なんですね。

それの特許とか、外国への紹介とか、アーロン・パーマーが、ビジネスの窓口だったんです。

その彼が、おそらくペリーを蒸気船開発の責任者に持って行くよう後押しをしたんでしょうね。

こいつだと、目星をつけてですね。

そして、1837年に、このアーロン・パーマーが、恐慌下のアメリカで、N・M・ロスチャイルド&サンズと契約しているんですね。

N・M・ロスチャイルド&サンズというのは、ネイサン・ロスチャイルドが、ロンドンに行って、まず作ったと。

ロスチャイルドの二世代目の三男。

三男で男の子だけれども、名前がネイサンという事ですね。

その、N・M・ロスチャイルド&サンズの代理人になったんですね。

で、このN・M・ロスチャイルド&サンズというのは、今でもずっと続いていて。

トランプ大統領の、有力な閣僚のロス商務長官は、この出身ですからね。

1830年~1847年に、ロスチャイルドグループの有力な人脈を使って、主に太平洋地域と、アメリカとの貿易拡大の可能性を、調査、研究しているんですね、17年間。

それから、1839年に、ロスチャイルド銀行の紹介でオランダに行って、オランダ政府の協力で、長崎のオランダ商館長からの報告書などを入手して、研究しているんですね。

出島が大活躍なんですね。

で、この頃、アメリカの連邦最高裁判所の法廷専門弁護士に、アーロン・パーマーが、就任しているという事なんですね。

で、1842年~1851年、歴代大統領や、アメリカの歴代大統領や議会に、日本開国の計画案を、数次に渡り提言と。

長くなるので、ポイントだけに絞りますけれども。

アーロン・パーマーが、アメリカ政府にですね、大西洋と太平洋を結ぶ運河。

これはのちにパナマ運河に繋がって来るんですけれども。

大陸横断鉄道のビジョンを、ロスチャイルドの代理人が、アメリカ政府に投げているんですね。

だから、もっと言うと、アメリカ大陸は俺の物だというモンロー宣言も、ロスチャイルドが誘導したという事は、あり得ると思いますね。

で、「太平洋にかけた世界貿易の基本政策を策定すべきである」と。

「アジア新興国地域に使節を送るべきで、貿易の拡大実現を図るべき」と。

アーロン・パーマーが、歴代の大統領に、提言をしているんですね。

で、「使節は、蒸気軍艦を、東アジア諸国に差し向けるべきである」と。

「特に、日本と交易を開き、通商条約を結び、駐在公使や領事を置くべき」だという事ですね。

「一般的に、日本国民は、外国人に対して、友好的で親切」だと。

ペリーの言っている事と違うんですよね。

「この国の政府は、やがて周囲の状況の力で、また、特に太平洋へ進出しているわが国民の存在により、益々強まるこの時代の商業精神に屈服することになる」と。

ビジネスに屈服すると。

軍事力に屈服するんじゃなくて、ビジネスに屈服すると。

「堂々たる合衆国艦隊に支援され、提案の如き性格を持つ使節団は、確信をもって予言できますが、傲慢で強情な将軍、」

これは、代々の徳川将軍の事を言っているんですね。

「その老中、「精神的な帝たちを、」

天皇ですね。

つまり、権力と権威が違うという事が大前提。

分かっているわけですね。

そこを分かって、ちゃんとやるというのは凄い。

日本の国民が、未だに分かっていないことまで、ちゃんと分析しているんですね。

この時代ですからね。

凄いですよね。

これは、1842年~1851年の話ですからね。

「何らかの満足できる解決策へと速やかに引き込み、その帝国に」

日本の事ですね。

「我々との通商の道を開かせるでしょう」

という事で。

1846年には、下院外交委員長に宛てた提言書をですね、ニューヨークの専門誌に発表という、マスコミ工作もしているんですね。

つまり、アメリカのマスコミに、ロスチャイルドグループが、工作しているわけです。

世論を作っているわけですね。

そうやって、アメリカの税金を使わせようとしているわけですね。

1851年に、フィルモア大統領、ウェブスター国務長官と、アーロン・パーマーとで、遂に、日本遠征の基本計画書を、アメリカ合衆国の政府で策定され、そして、1952年に、ペリー提督が、交渉の全権に就任して、翌年、1983年7月に浦賀に来航。

という事で、ここで、やっと浦賀に来ましたという事で。

これをですね、全部、教科書で丁寧に説明したら、それなりの紙幅を取ると思うのですが、最初に紹介した、

「泰平の眠りをさます上喜撰、たった四盃で夜も寝られず」

これで済まそうとしているわけであって。

ですから、思考停止になるんですね。

現代の、日本の諸々の課題やテーマを検討し、今後の日本を占う為には、国際的な力学を考慮する事は、絶対的に必要ですよね。

その事は、ずっと歴史的に続いている事であって。

とにかく、日本の近代の始まりについて議論をする場合、狂歌で、思考停止には、決してしてはいけないわけであって。

日本の近代というものの本質をですね、議論しようとしたらですね、少なくとも、日本国開国計画書から、始めなければいけないんです。

そして、この時の、いわゆる国際金融資本側の認識。

「日本は東洋のイギリスとなるであろう」と。

1849年ですよ。

ここから始めないと、日本の近代は、どうしてああなったのかというのが、見えてこない。

実際、その通りになって来たわけでね。

大東亜戦争までは。

だから、ここまで戦略的な視点と計画がきちんとあったというね。

勝海舟は、非常にものが見えていたと言われていますね。

日本は開国すると。

で、向こうの軍事技術を導入して、海軍国、日本になるんだというヴィジョンを、早くから持っていたと言われていますけれども。

こういう情報や思想が、入って来ていたと思いますよ。

「日本は東洋のイギリスとなるであろう」

「日本は東洋の一等国に変貌できる」

これが、幕末、明治維新、近代化の原動力だったと思うんです。

やらしいですけどね。

向こうからの思想の系譜であり、莫大なエネルギーがね。

日本に対する戦略的な見方ですよね。

もちろん、日本の中で、多くの血を流し、大変な葛藤があり、そして、国を想う若者たちも排出したわけであり。

そして、明治の国づくりは、日本の農民も含め、工場労働者も含め、色んな階層の人達が一体になって、大変な努力をしていったわけですけれども。

でもそれは、もう、見立てられて、見通しを、彼らは持っていたという事ですね。

日本は、そうなるという事をね。

見えないレールが、ちゃんと敷かれてね。

見通しを、彼らは、もう、持っていたというわけですね。

その上での、日清戦争であり、日露戦争であり、日英同盟でありね。

この中での、例えば新橋横浜の鉄道開設であり、日銀が、この中で作られてわけであり。

この枠組みでの、渋沢栄一の活躍であり、という事じゃないかと。

少し、ロスチャイルドの観点から見てみたいと思うのですが。

このロスチャイルドの代理人、アーロン・パーマーわですね、長期的な視点から諸構想を作っていたという話をこれまでしました。

その実現史なんですけれども、1854年には、日本開国、日米和親条約締結、これをやったんですね。

1861年には、アメリカ大陸で、電信網を開通しているんですね。

これは、民間会社ですけどね。

で、南北戦争があるんですよ、アメリカでは。

従って、日本を開国させたのは、アメリカを使って開国をさせたけれども、その後の近代日本作りは、アメリカがちょっと忙しくなってきたので、イギリスを使ってやらせたという歴史になっていますけどね。

そして、1867年には、太平洋蒸気船航路を開通と。

香港、上海、横浜、サンフランシスコですね。

これは、日本側から、日本郵船というのが出て来ますけどね。

そして、1869年には、アメリカ大陸横断鉄道を開通と。

労働力は、奴隷が解放されてしまったので、大量のシナ人の労働者を移入すると。

これも、アーロン・パーマーの構想なんですね。

だから、太平洋を越えて、日本、シナ、全部つなげちゃうんですよね。

米英の合作というと、それはむしろ、ロスチャイルドに繋がりますからね。

このアーロン・パーマーが構想し、そして、具体的にプランに落とし込んで、アメリカ議会、アメリカ大統領に提出したものが、全て、この1850年代、60年代に、実現しているんですね。

ロスチャイルドの代理人ですよ。

その心は何かというと、ファイナンスは、ロスチャイルドのエージェントからなんですね。

当然、そうなるという事ですね。

もう一つ、大事な意味がありまして。

神がアメリカに与えたという「明白な使命」

マニフェスト・デスティニーという言葉、有名ですね。

これは、そういった信仰が出てきましてね。

アメリカ人の、例えば西部開拓の原動力、魂でしたね。

福音派もそういった流れですよね。

これは、だけれども、西海岸に行けば、到達すれば終わるんです。

本来の常識で言えば。

人間の思考で言えばね。

これがですね、このアーロン・パーマーによって、ロスチャイルド家の代理人が仕掛ける事によって、アメリカ大陸の開拓を超えて、太平洋に広がったんです。

これが、地球全体に、及んで行く事になるんです。

で、それも超えて、中近東まで行っちゃって、という事なんですね。

ここで大事なのは、次第に大英帝国は疲れてきますから。

息切れしてきますから。

彼らの知恵は凄いですよ。

アメリカのパワーは、次第に、大英帝国の衰退後の空白を埋め、日本を追い詰め、占領する。

大英帝国の衰退後の空白を埋め、という駒に使ったのが、ロックフェラー家ですよ。

駒にしたのはロックフェラー家ですよ。

これが、エネルギーだとか、車だとかね。

だから、狭い意味でのアメリカ株式会社といったら、イコール、ロックフェラー家みたいな所がありますが。

うまく使っているわけですね。

日本はだから、明治維新より前に、もうロスチャイルド家が入っているわけですね。

で、南北戦争の後、ロックフェラー家が勃興してきまして。

大英帝国の空白を埋めるように、国別で言えばね。

うまく、ロックフェラーの石油のカネが使われて行くわけですよ。

それが、さっき、中近東まで行ったというお話をしましたが、ずっと世界を覆っていくと。

ロスチャイルド後衛、ロックフェラー前衛という形でですね。

で、ロシアとか、影響が及んでいない場所で、紛争を起こすわけですね。

まさに、地球規模のビジネスですね。

明治維新の辺りに、アーロン・パーマーとかがいるわけですよ。

で、ロスチャイルドの影響で覆っていくと。

で、うまくロックフェラー家を使っていくという事ですね。

びっくりするのが、その情報の正確さと、先を見通す力というのは、現代にも殆ど通じているというね。

変わらぬ力を、現代にまで持っていますね。

国家100年の計と言いますけど、100年以上、200年のイメージで先を見ている。

この凄さというのは、確かに、世界を支配する人たちなんだというね。

日本の近代はここから始まったという話は、ここで一区切りにするのですが。

日本の現代は、どこから始まったのかと。

それは、大東亜戦争の事を、考えなければいけないと。

そして、昭和20年8月15日の敗戦、占領の始まりが、明らかな一つの大きな始まり、エポックですよね。

日本の占領の原点、思想的原点がどこに表れているのか、という事が、これも、ロスチャイルドグループなんです。

これをちょっと、最後にお話をしたいのですね。

アーロン・パーマーの提言書と一緒。

1945年1月、昭和20年1月。

第9回太平洋会議。

太平洋会議っていうのは、ロックフェラー系統のシンクタンクで、日本を封鎖、包囲し、戦争に追い込み、敗戦させ、占領政策を作って行こうという民間レベルの世界組織ですね。

そして、日本も加入したんですが、新渡戸稲造などが、騙されてですね、これは素晴らしい、建設的な民間の平和組織だと騙されて、途中で気が付きましてね。

白洲次郎とか、尾崎秀実とか、うやま まさみちとか、松本重治とか、西園寺公和とか、牛場友彦とか、反日の若者たちが、このロックフェラーのもとに募っていたと。

そういう太平洋会議ですが、この昭和20年1月、日本の敗戦の7カ月前に行われた会議で。

もう日本は、参加していないですけどね。

この会議で、ロスチャイルドのシンクタンクである王立国際研究所が、報告書を出しているんですね。

太平洋問題調査会の太平洋会議に、王立国際研究所が、報告書を出していると。

王立国際研究所の方が、兄貴分なんですけどね。

報告のテーマは、日本占領政策の方針。

で、そこで言われている中で、私は見ていますけれども、2つ、重要な柱がありまして。

一つは、占領政策遂行のため、大日本帝国の既存の機構は、壊すんじゃなくて、そのまま存続活用するという方針が出ているんですね。

特に、天皇。

それから、行政、霞が関。

それから、教育。

国民学校も含めて。

その心は、日本統治、これは、1840年代から、権威と権力は別だっていう事を、彼らは、認識していましたし、明治憲法の事も、よく勉強しているはずであって。

日本統治の為には、平和な秩序を保つ為には、象徴の天皇が必要だという事を言っているんですね。

それから、行政と教育は、彼らの言う言葉ですが、広告イデオロギー、あまねく全国に、非常に効率的に普及させていると。

行政も、戦争行政も、非常に効率的に推進している、素晴らしいエネルギーの行政機関と、教育機関。

だけれども、よく分析をすると、この日本の組織の性質というのは、トップさえ変えてしまえば、組織の性格が変わってしまうと。

つまり、意味するところは、トップを反日にすれば、全部組織は、反日組織になると。

そういう意味を含んでいるんですね。

という分析をしていると。

その通り、戦後、やるわけですね。

象徴天皇であるし、赤とかピンクを、行政とか教育のトップに持っていくと。

吉田総理から始まって、ずっとそうですからね。

今の岸田さんまで、全く変わらないですね。

国士は、全部、パージしちゃいましてね。

当時どころか、戦前の日本を知る日本人が少なくなって来た、今に近づくほど、日本全体が、ピンクから、赤になろうとしている。

露骨になってきたんですね。

それだけ日本が薄れて、彼らの一種のグローバリズムというか、というもの自体が、色濃くなっている。

それから、もう一つ、昭和20年1月の報告書のもう一つの柱は、戦後の日本は、原爆の落ちる焼け野原の日本は、経済的に、一大発展するっていう結論を出しているんですね。

文章を見ましたが、戦後、日本は極東で、いち早く、アメリカ型の重工業社会になるって分析をしているんですよ。

石油さえ持ってくれば。

勤勉で、ノウハウも高くて、組織的。

これ、当たっていますよね。

そうするとですね、近代日本の始まりも、現代日本、戦後日本の始まりも、彼らは見通していた、という事ですね、両方。

見通していたというか、その通りやらせたというね。

その中で、日本人というのは、知能レベル、血と汗と涙の努力をしているわけですけどね。

そこは、全く否定していないですし、私は、誇りですけれども。

これは、歴史ですから、一次資料がある世界なんですが。

さて、1990年頃、平成が始まる頃ですね、彼らは見通しているはずですよ。

どう見通しているかは、もう、一次資料は無いけれども、今、明らかなんじゃないですか。

よく言っている1995年説。

小選挙区、消費税、構造改革。

ありとあらゆるものが、1995年くらいの、あのバブルの崩壊から、全く、日本が変わって来ているんですね。

だから、1990年~95年の間に、計画が出来、95年から実行しているわけであって。

で、現象面で出ているのは、ブッシュ大統領が、ソ連が無くなるというか、冷戦が解消した後、ブッシュ政権、あるいはその近くのシンクタンクは、「敵は、ドイツ、特に日本だ」って言っているんですよ。

もう、クリントンがはっきり言っていますよね。

「これからの敵は、日本」ってね。

彼らは、大統領だって、操り人形ですからね。

そうすると、その見通しというか、見立てというのは、その前に彼らは持っているわけであって。

で、私がお話したいのは、3000年弱と敢えて言いますけど、この日本、大和民族ね。

自ら、見通しを持とうよと。

今度こそは、という事なんですね。

象徴天皇の話にしても、実は、アメリカとロスチャイルドが逆立ちしても、そんな彼らが指摘している2500年の歴史って言っていますけど、この時間が生み出した、そういう日本が生み出した民族的な特性というか、伝統や文化というのは、実は本当にオリジナル。

まさに、そこしかスタート地点はないと。

こういう認識をちゃんと持てば、で、我々はどうするか、という事ですね。

だから、希望ですよね。

この認識を持たないと、スタート出来ないから、あっち行ったり、こっち行ったりで、掌の上で、踊らされるだけになる。

突然ペリーが来ましたでは、思考停止になって、そこから、日本のこれからを考える解は、出て来ないですね。

「イギリスになる」というのは、褒め言葉であると同時に、疑似イギリスという事ですから。

江戸時代というのは、実は、大変に文化的にも豊かだし、日本の良さを、遺憾なく発揮した時代だったんだけれども。

それを、情報を得て、ちゃんと分析をして、見通して、開国させて、その先までの戦略を、ロスチャイルド家がきちっと持っていたというのは、ちょっと、感心しますけれども。

180年前から、この事実は、アメリカの専門家の間では常識ですから。

そして、戦後のいい研究もあるし、いい著書もあるので、とにかく共有して、広めなければいけない。

思考停止にならないようにね。

「疑似イギリスになれ」と言われて、褒め言葉でもあるんだけれども、非常に、血のにじむような努力をしてなったと。

で、大東亜戦争で負けたけれども。

今後は、「疑似アメリカになれ」と言われて。

また、非常に努力をして、エコノミックアニマルを追いつけ、追い越せでやって、なったけれども。

じゃあ、今度は、「溶けて無くなれ」って言われているわけですよ。

はっきり言うと。

じゃあ、溶けて無くなるんですかと。

もう、崖っぷちにいるんならね、今度こそ、自分たちの頭で見通しを持とうよと。

言い方を変えれば、これは、国家ビジョンという事になるんですかね。

国家基本戦略というのが、本当に無いと。

どういう国にするのか、というね。

これは隠してもいいから、政治をする人間や、トップたちがちゃんと持ってね、やらなければいけない。

それも、今までお話した認識を持って、やらなければいけない。

こういった事実認識の前提がないと、組み立てが出来ないですからね。

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