幸せになる考え方と方法!幸福とは誰のもの?人の性と幸福!科学的幸福論 その1 武田邦彦

「いいね!」へのご協力をお願い致します!最新情報をお届けします!

目次

幸福とは一体なんなのか?

ある若い先生から、幸福論の論文を頂きまして、それを読んでおりましたら、その論文は非常にレベルも高く、これまでのいわゆる幸福論というのをよく踏まえて論じている、学術的な論文でありまして、その人とぜひ近いうちにいろいろとお話しとか対談をしたいと思っているんですが、

その前に、幸福とは何かなというのを自分でも考えてしまったものですから、ここにまず私がこれから1年くらいかけて幸福というものを考える、その途中にその若い優秀な先生とも議論をする、

そういう1つのきっかけとして幸福というシリーズを久しぶりに、このブログではしばらくシリーズというのをやらなかったんですけど、やり始めたいと思います。

動物の幸福とは

動物の幸福とは何かと、私は科学者なものですから、まず人間は動物ですから、どう見ても動物ですので、動物の幸福とは何かということを考えますと、これは例えばネズミなりいろんな動物がいますね。

キツネなりゾウなりライオンとか、我々に1番近いサルと、こういったものを観察しますと、いずれも幸福そうだというふうに見えます。

もちろん常に彼らは命の危険とか食料がなくなる危険というのが存在いたしますし、草食動物の場合には、肉食動物がある程度の数いれば、必ず草食動物の一部は肉食動物に食べられるという運命にあります。

これはかわいそうとか何とか言うことではなくて、かわいそうはかわいそうなんですけれども、肉食動物の数がいれば、それはどうしても草食動物が食べられる危険があるのはしょうがないわけであります。

動物は何を幸福にしているかと言いますと、普通の動物、弱い動物はエサばっかり探して一生懸命働いて、子供を産み育ててというふうに見えますので、あまり幸福を考える暇がないんじゃないかというふうに気がいたします。

鉄の鍬が出来るまでの人間の幸福

これはのちに私が、紀元前700年くらいに鉄の鍬ができるまでの人間と似てるんじゃないかという気がいたします。

そういう段階では、幸福というのは命そのものではないかというふうに思うんですね。

命が全うされれば、つまり天寿が全うされればそれは幸福である。

つまり幸福というのと天寿というのは、ほとんどイコールではないか。

動物の命は何で決まるのか?

じゃあ動物の命は何で決まるかと言うと、第1には経験数の原則。

例えばネズミとゾウを考えますと、骨も皮も筋肉もほとんど同じくできております。

それから免疫系もゾウが極めて優れているというわけじゃありません。

ただ体が小さい動物は早く死に、体の大きい動物は長く生きるんですけど、これは1つ1つの行為が、体の小さい動物は素早く動き、身体の大きな動物はゆっくり動くので、その比率で命が決まっております。

つまり生涯の時間を一定にしますと、小さい動物が有利になってしまうので、小さい動物も大きい動物も人生において同じ経験をするように設定されている。

その経験が来たら、ねずみはまだ新品の命なのに、命を落としてしまうと、死のスイッチが入ると、こういうわけですね。

哺乳動物にとって重要な事

これは第2原則は命そのものでありまして、命というのは哺乳動物の場合はすでに有性生殖動物なわけですから、結婚をするということが非常に重要で、

自分1人の命はネズミなら1年で、ゾウだったら20年で尽きてしまうんですけれども、セックスさえすれば、子供に命がつながりますので、その命は親から子、子から孫へと、1万年も続くわけですね。

したがって動物は、自分の命を投げ出して子供の命を救おうということをするわけですね。

命をかけて子孫を残す鮭

私がいつも例に挙げるのは鮭ですけど、鮭は産卵期に川を上り始め、上流で伴侶を見つけてセックスをしますね。

そしてその受精がうまく行ったら、その時点でまだ元気なオスもメスも、すぐ死んでしまいます、死のスイッチが入って。

やがてその肉が腐って川に漂い、生まれた稚魚はその親の肉を食べながら川を降りていくわけですね。

それ以外に、95%くらいそうだと言われておりますが、親がその時死なない鮭は、川を降りる途中で餓死すると。

これも連帯して寿命を守るということですね。

集団への貢献

3番目は集団に貢献するということで、例えば哺乳動物のオスが一夫多妻の場合が多いんですけど、はぐれオス、ボス争いに負けたオスがすぐ死ぬ、もしくはメスが生理が終わったらすぐ死ぬ。

こういったのは、その集団に役立たなくなったら自分から命を捨てる、つまり死のスイッチが体の中で入る。

金言は苦しんで死ぬのか?

このとき見ていますと、どの死に方もそうなんですけど、人間のように苦しんで死ぬということがないんですよ。

人間でも本当は苦しんで死なないんじゃないかと思うんですけど、この前メールを頂いた中に、きわめて苦しんで命を落とした方のご紹介がありました。

私はそれを読んで、ボス争いに負けて死ぬはぐれオスの死に方、それから生理が終わって死ぬメスの死に方、それから鮭の死に方ですね、こういったものを見ていますと、苦しんで死ぬんじゃないんですよ。

体の異常が起こって死ぬわけでもなし、病気になって死ぬわけでもないんですね。

自分の命が尽きた時に死ぬ、まさに天寿で死ぬわけですね。

動物にとっての幸福とは?

そうすると動物が産まれて、例えば鮭なら海に行って一生を過ごし、それから川に上ってきて伴侶を探してセックスをして、そこで子供のために命を自分で捨てるという人生を見ていますと、

やっぱり動物は基本的には命以外の目的はないんじゃないかと、したがって天寿を全うすることが幸福の第1条件ではないかと。

じゃあこれが人間の時に天寿を全うするということだけでは幸福はもたらされないのかということです。

では、天寿を全うする意外に幸福がもたらされないとしたら、一体我々が追及している幸福というものは、命とか健康とかそういうものじゃないということになるので、そうするともしかすると、全部が幻想かなと思わないでもないわけですね。

例えば力が強くて、悠々とエサをとれるようなライオンの場合は、じゃあエサをとる以外の時間は何をしているのと言ったら、ゴロゴロ寝ているわけですよね。

寝ているということになりますと、それは幸福を追求しているとも思えないんですね。

幸福とは非動物的なものなのか?

つまり私がここでお話をしたのは、幸福というものが人間という動物の本質的なものであるならば、もし人間以外の動物にも幸福というものがあるならば、エサを取るのに余裕があるようなライオンは、何か幸福を目指してゴロゴロ寝ていないで何かするはずなんですよ。

サッカーをするとかですね。

もちろんサッカーはボールがないからできないという反撃も受けますからすぐ言わなきゃいけませんが、ただマラソン大会ならできますね。

何か動物の世界に、幸福を目指した命を保つという以外の、命を保つというのは例えば食料を得る、セックスをする、これは命を保つわけですね。

命を保つこと以外のことをしているかと、そうすると人間だけが幸福というものを追求しているのであれば、もともと幸福というのは非動物的なものなのか、つまり人間の頭の幻想だけによるものかと、そこのところをちょっと考えなければいけないんじゃないかと、そんなように思います。

動物には幸福が無いのか?

動物というものには幸福というものがないのか、動物というのは、余裕のない動物は一生懸命食べ物を探して、敵から襲われないようにして、そしてよかったな、これが一生が終わったな、と言って終わる、それで幸福感に浸ってるのかもしれない、

そうすると、寿命の第1原則、第2原則、第3原則が満足すれば、それでその動物は幸福な人生だったと、こうなるわけですね。

力のある動物、例えばライオンなんかの場合は、幸福になるには暇があってゴロゴロ寝ているのが幸福なのか、それともライオン同士で遊び歩いているのが幸福なのかという問題があって、

どうも動物は、幸福は単に生きていることだという感じがするんですが、それも人間が勝手に考えたことのように思うわけですね。

働く人と暇な人の誕生

それでは動物から考えるのもひどすぎるということであれば、人間で考えますと、紀元前700年、ヒッタイトでは1300年、中国では400年くらいなんですが、

押しなべてだいたい紀元前700年くらいに、人類が住んでいるところに鉄の鍬が少しずつ行き渡る、そうすると食料の生産性がものすごく上がって、みんなで仕事をすると暇な人が出てきちゃう。

つまり今までは、100人いたら100人が必死で働かないと、食べる物ができなかった、時にはよく餓死をした。

そうなりますと、一生懸命豊作を祈って米を食べられる、もしくは魚を食べられる、狩りがうまく行く、ということが幸福だったと。

今日はよかったな、狩りに出たけれども家族に獲物獲って来れて、って言って、帰ってくるとみんな家族が踊りを踊って歓迎してくれる、それをみんなで焼いて食べて、簡単な踊りか何かをして満足して寝る、明日も神様こうしてくださいといった幸福感に浸ると、こうなりますよね。

しかし鉄の鍬ができますと、だいたい1割から2割くらいの人が働かなくていいわけですよ。

暇な人が出てくるわけですね。

この暇な人が王様になり貴族なり軍隊になり、また思想家になったり、宗教の教祖になったりするんですね。

2階級に分かれた人間

そうするとその人たちだけじゃなくて、他の人も暇ができるわけです。

そして人間が2階級に分かれますね。

つまり、暇な人たち、これはほとんど働かずに、1割か2割くらい働いて、あとは8割が暇なものですから、そこで何かしなきゃいけない、ここでいわゆる幸福が何かというのが出てきたんじではないかと思いますね。

ちょうどその頃、宗教も出てきますし、ギリシャのソクラテスとかも出てきます。

中国では孔子とか老子とか出てきますね。

その前はほとんどいないんですよ。

インドがちょっと早いと言えば早いんですが、それでも思想家という点ではだいたいお釈迦様前後からですね。

物を考え始めた人間

ですからだいたい紀元前500年くらいから、人間は物を考え始めるわけですね。

そして、俺はこれで人生がいいのかとか、そういうことをいろいろやるわけですね。

宗教も出てきて、神様もいるとかなっちゃうわけですね。

そうすると、そこで幸福という概念ができてきたのかもしれませんね。

それまでの文献なんかがほとんどないので、なかなか文献上を当るということは難しいんですけれども、

しかしそれはお釈迦様が王様の子であり、ソクラテスが奴隷が90%くらいのアテネの町に住んでいたわけで、孔子も別に田畑を耕していたわけじゃない、王様の相手をしていたというところから見れば、

現在我々が整理している、その人たち思想家の最初の活動というのは、むしろ特権階級のものであって、多くの人たちはまだ幸福には関係がなかった可能性もあるんですね。

やはり相変わらず桑で畑を耕していた。

他人を侵略し始めた暇な人間

以前と違うのは、自分が耕したものを自分だけで食べていたのに、今では自分が作ったものの2割とか5割とかを暇な人に取られてしまうという、そういう悲惨な状態になり、相変わらず働かされるということがあるわけですね。

産業革命で過酷になった労働者の労働

これは産業革命で起こったことと同じですね。

産業革命起こったことは、機械ができて、今まで14時間労働だったのが1時間で同じ量ができるということで、みんな最初は喜んだんですが、蓋を開けてみると、つまり機械化が進んでみると、実は14時間は同じで、その14倍物を作るようになったと、そういうことなんですけど、

労働はむしろ昔より、自分で決められない分だけ過酷になったというのが産業革命だったわけですが、

暇な階級の幸福の誕生

そういった産業革命が紀元前700年くらいに起こって、それでソクラテスやお釈迦様や孔子様が産まれて、それで思想とか宗教が誕生した、そしてそこで富裕階級、暇な階級の幸福ということだけが一応できるわけですね。

これはもしかすると、もしかすると次の産業革命、1800年と言っていいんですけど、細かく言うとジェームズワット、1789年、トレビシック、1804年とか出てきますが、一応人々がもう1回格段に楽になるのが1800年なんですね。

それまではほとんど同じ状態が続くわけですよ。

つまり貴族の幸福を我々が今論じてるのかなと。

幸福議論は貴族の幸福

我々が幸福であるとか言うのは、その当時働かなくてよかった貴族の幸福、これが今の幸福論議なのかもしれない。

つまり我々が幸福かどうかと考えるのは、まず第1に我々が暇があるかどうかということがまず問題である。

じゃあ暇があった時に、その暇をどう潰すかが幸福なのか、そうじゃなくて、毎日家族と朝飯を食べ、みんなでさあ行ってこようと言って学校に行ったり仕事場に行ったり、家庭で一生懸命洗濯をしたりして、夕方また家族が帰ってきて、そしてそこでご飯を食べて風呂に入って寝るという、そのこと自体が幸福なのか。

人間の幸福に関する2つの課題

つまり幸福というのは、人間の基礎的な生活の中に存在するのか、それとも暇なところに存在するのかということで、幸福を考えるという意味では、人類は2つ大きな課題を持っているということになりますね。

動物には幸福感はないかもしれませんが、動物に何が幸福かと言えば、おそらく敵があんまりいなくて、家族順調に過ぎて、エサも一応人生で豊かに与えられて、そのまま人生を終わると、これが幸福だとしますね。

暇な幸福というのはないということになりますね。

人間が経験した戦争と虐殺

それから、戦争が非常に多かった時代は、戦争で命を落とすのがずいぶん多かったわけですね。

戦争で命を落とすのが幸福なのかと言うと、これは幸福とは言えないでしょうね。

例えば、中国なんかは、たびたび大虐殺が起こるわけですね。

9割が虐殺された漢民族

例えばこの間お亡くなりになった岡田先生の、いろんな研究によると、中国の漢の時代の終わり、紀元200年くらいですが、漢民族の9割が殺された、9割が殺されるということになりますと、どういう生活をしても幸福とは言えないわけですね。

これは17世紀にウェストファリア条約ができてから、しばらくヨーロッパ自体を考えれば平和だったんですが、それが民主主義になり、メディアが敵愾心(てきがいしん)をあおるということもあって、19世紀の終わりから今度また戦争が討ち続くという時代に入るわけですね。

そうすると、例えば30年戦争におけるドイツの荒廃、それから第一次世界大戦後のドイツのひどい姿、それから第二次世界大戦における2000万人3000万人の死者を出したと言われるソビエト、こういうのは、また幸福と言えるかどうかという問題がありますね。

戦争の時代に生まれた幸福

ですから、戦争の時代に生まれた幸福というのが、またもう1つあるような気がいたします。

その意味では、今から私たちが検討する幸福というのは少なくとも、日常生活、生きていく上での幸福なのか、それとも暇な人生をどう生きるかという幸福なのか、

それとも離婚しないというような男女の間のこと、それから子供が順調に育つという家庭内の幸福なのか、家庭内以外に幸福という概念は存在するのかと、こういったことですね。

死が迫った時の幸福

それから病気なんかもそうなんですけど、病気というのがなぜ人間に存在するのか。

実は動物にも病気は存在するんですが、かなり様相が違うんですね、人間と。

そう言った場合、つまり死が横に近接してあるときの幸福感と、死が横に近接していないときの幸福感というのも、また考えなきゃいけないんじゃないかと思うんですね。

いずれにしても紀元前700年の大きな変革、それから1800年近辺における大きな変革、この2つと幸福論というのは、切っても切り離せないものではないかというふうに思います。

それに加えてイエスキリスト、お釈迦様、ムハンマドなんかの宗教家の幸福感というものがそれにダブってくるように思います。

人間の性と幸福

幸福を考えることで幸福関係のいろんな書物を読んでいますと、言ってみれば、頭の中で考えて幸福論というのがずいぶんあるんですね。

頭の中で考えた幸福論というのは、例えば幸福というのはこういうものだ、というふうに書いてあるわけですが、私は実は科学者なものですから、何かの根拠が欲しいんですね。

自分の頭の中で考えた根拠が欲しいんです。

例えば良寛さんが、新潟の片田舎で六畳一間のいろりで生活をしたと。

それはそれなりに幸福なんですが、どうしてもちょっと違う感じがするんですね。

ここで書いたのは、「さが」と幸福であります。

人間の本来的な性ですね、たちというか、そういったものとの関係を少し整理をいたしました。

実は男性、女性の性の幸福というのは別の機会にもう少し踏み込んでみたいと思うんですが、それよりも前に来るものは、人間としての性と幸福ですね。

動物が持つDNAの特権

まず第1に、動物というのは非常に不思議なもので、DNAというものが生物の中にできたということが、決定的だったわけです。

最初の緑藻類、ストロマトライト、こういうものは非常に原始的なDNAを持っておりまして、それではなかなか他の生物に勝てないということで、少しずつ少しずつDNAに改造を加えて、

今から5億5000万年前に、多細胞生物ができ、それから大きな気象変動で1回三葉虫なんかが滅びた後、恐竜の時代、中生代が来て、これが6500万年くらい前に絶滅してから、今度は哺乳動物というのがこの世の中に登場したわけですね。

それからずっと最後に、現在のところ人間というのがいるんですが、DNAの特徴は何かと言うと、改善に改善を重ねて、より強い生物を作るということだったんですね。

簡単に言えば、DNAというものは、組み換えができたり、増やしたり減らしたりすることができるというような特徴があって、だから自然淘汰の中で、少しずつ少しずつ強いもの強いものと選んできたら人間ができちゃった、ということなんですね。

人間の今後も、強いもの強いものというふうに求めていく、これはもうDNAの性質としてしょうがないんですね。

それは止められないんですよ。

人間の次に誕生する優れた生物

ですから、人間の後には人間よりも優れた生物が出てくるのは間違いないんですね。

ですからこの性、動物の性というのは毎年毎年改善に次ぐ改善なんですよ。

改善をしなくてはやまない、というのがDNAの特徴であります。

それから脳というのは、原始的な脳がどこから生まれたかというのはいろいろな議論があるんですが、魚類あたりを見ますと、魚類、両生類と来たんですが、爬虫類の時にだいたい本能、DNAの情報数と脳の情報数がだいたい一緒になったと言われております。

そのあと、哺乳動物はだいたいDNAの情報量に対して、約10倍の脳の情報を持っていて、脳がやや優勢になりますね。

ですから哺乳動物はやっぱり他の動物に比べて、身体的な特徴、主にDNAの特徴も優れていて、かつ脳も優れているので、哺乳動物が現在この地球上の支配者となっております。

その中で今度は人間という非常に特殊な、脳が極めて発達した動物、これは遺伝情報に対して約100倍から1000倍の情報を持っていると言われております。

この脳ができてみると、この脳もけしからないことに、改善に次ぐ改善なんですよ。

毎日改善なんですね。

かくして私たちは、最初は洞穴かなんかに住んでたんですけど、そのうちだんだん家を建てるようになったり、挙句の果てには、最近ではもう高速道路を作ったり高層ビルを作ったり、スマホまで作ったりなんかして、とにかく改善の意欲がすごく高いんですよ。

改善をいいこととするんですね。

改善を尊敬する人間の脳

我々の脳は、改善に対して尊敬してるんですよ。

ですから改善の1番トップがノーベル賞だとしますね。

するとノーベル賞を取った学者を、何となく自然に我々は尊敬しちゃうんですね。

何でノーベル賞の学者を尊敬するのって、よく理由はわかんないんですけど尊敬しちゃうんですね。

ところが、ここに大きな問題があります。

つまり、DNAにしても脳にしても、改善が良しとするんですね。

私がよく言うのは、ある主婦がお皿を洗う時に、前の日はたっぷりと洗剤を使わないと油汚れが取れなかったのが、次の日にちょこっと1滴だけ垂らしたら油汚れが全部取れる洗剤を使ったら、その次の日からはもう新しい洗剤を使わざるを得なくなるわけですね。

つまり人間というのは日々改善して改善して、少しずつ少しずつ改善して、後に戻れないんですよ。

これはDNAの特徴もそうなんですね。

すると現在DNAで頂点にいて、脳で頂点にいる人間は、本当に毎日毎日改善するんですよ。

かく言う私も、ついつい毎日ブログなんか出したりして、これも改善の方向に向かってるんですね。

改善する人間と幸福の関係性

ところがここで難しい問題が生じるんです、幸福との関係では。

改善の目的が不明なんですよ。

つまり、幸福から言うと単細胞生物でよかったかもしれないですよ、ストロマトライト。

もしくは、多細胞生物の最初の生物でよかったかもしれないですよ。

それが少しずつ改善するものですから、どんどん改善されちゃうんですね。

改善と言いましたけど、善かどうかわからないんですけど、とにかく改正されていくんですね。

最終的にどうなるか、誰も分からないんですよ。

恐竜の支配と絶滅

実は中生代に登場した恐竜も、横の恐竜より強くなるためには、自分が横の恐竜より大きくなきゃいけない。

だから大きな体のDNAを持った恐竜が支配する。

それよりもっと大きな恐竜になる、というふうにどんどんなって、ついに2億5000万年かけて、あんなでっかい恐竜になっちゃったんですよ。

最初はネズミみたいな恐竜だったんですけど、あれがあんなでかい恐竜になっちゃったわけです。

一説では、でかすぎて死んじゃったという話もあるわけですね。

隕石で死んだという話もあるんですけど、ちょっとつじつまが合わないところも学問的には実はあるんですね。

脳の進化こそ正しいと信じる人間の未来

人間も頭脳がどんどんどんどん進んで、ついに最近はノイローゼが出てきたりうつ病が出てきたり、いろんな精神病が出てくる。

つまり、脳の病気が顕在化してくるわけですね。

それから幸福論を言ったりなんかするわけですよ。

別に毎日ご飯食べてお風呂に入って、快適に過ごせばそれでいいはずなのに、幸福論をやらざるを得なくなってきちゃうんですね。

AI将棋にすでに勝てない人間の脳

この頃AIとかいう人間の頭と同じようなものができて、それが人間の将棋よりか強くなると、将棋はどうなるんだなんて考えたりしなきゃならないんですね。

だからこれは脳が発達してずっと行くと、例えばAIが進んでロボットができて人間を全滅させるとか、そうすると人間が改善と言っているのが実は滅亡だったと、滅亡の方に進んでいったりする、これが幸福論の混乱を招いていますね。

進歩しない状態が幸福だったのか?

私が幸福論をいろいろ勉強すると、ある人は、進歩しない状態が幸福だって言うんですよ。

これは私は、なかなかそんなことは簡単に決められないと思うんですね。

だって人間の本性が、体も頭も方法も全部改善することは心地いいと思っているわけですよ。

そういう性を持ってるわけですね。

その心地いいことをやるなと言われて、幸福かって言うと、それはやっぱりダメだろうと、そうすると、良寛さんの六畳一間の藁ぶき屋根のいろりよりも、東京に建っている近代的な豪華マンション、億ションの方が、心地がいい、幸福だということになるわけですね。

この幸福というのは、人間の性に合致しているという意味で幸福だというわけですね。

じゃあ人間の性に合致しないものの方が幸福だ、つまり例えばあまり便利になるのは幸福ではない、あまりいろんなことができるのは幸福ではないとしますと、自分の根本的な性質に反する状態を幸福と感じるということになると、これはかなりの飛躍というか、無理があるんじゃないかと思うんですね。

私は一応ここでは、人間は動物である、頭脳支配である、性が決まっている。

だから人間という生物の性に即した状態を持って、幸福な状態とするべきじゃないか、そうなりますと、東京の高層マンションの40階に住む億ションの持ち主ということになるんですけど、ちょっとやはり私も実は、そう言われると疑問が生じます。

動物の発生と人間の違い

動物というのがもともとどういうふうに発生してきて、動物というのは人間とどこが違うのか。

人間の中でも、鉄の鍬ができる前とできた後では、人間に暇ができるということで大きく幸福というものについても変わってきているんではないかということ、そして、人間の持つ基本的な性質というものがある。

その性質の第1は、改善しなければならない。

これは人間ばかりでなく、もともと生物がDNAでできているということもそうですし、人間がさらに頭脳というもので判断している、幸福感というのはおそらくかなりの部分が頭脳であろうと思うんですが、これもまた改善を要求する。

絶え間ない改善というものを求めながら、その中で幸福感というものを味わっている。

哲学的な幸福感と宗教的な幸福感

したがって、哲学的な幸福感、もしくは宗教上の幸福感でよく取り上げられるような、貧乏でもいいじゃないかとか、昔の生活でもいいじゃないかというのは、もちろん非常に論拠があるんですが、人間の本性とは反するんじゃないか。

やっぱり、人間の本性と反しても幸福だっていうことはないんじゃないか。

だからやっぱり藁ぶき屋根の六畳のいろり、トイレも汚い、そういうところに住むよりも、東京の高層マンションに住むほうが、一般的には幸福と思われるだろうと。

ここのところがあまり個人の恣意的なことではなくて、やはり人間とか生物とか、そういうものに即していなければいけないんじゃないかということを整理してきたわけですが、

幸福の利己と利他

実はどんなものでも自分がよければいいということを言われるんですね。

自分が満足する。

自分がいい生活をする。

自分が病気にならない、もしくは家族が非常に充実している、それが幸福なんだ、つまり幸福というのは本人の問題なんだというのが、非常に強い認識があるわけですね。

人間は一人では生きている価値が無い

しかし生物というのはもともとそうではなくて、生物というのは利他、つまり自分は生きている価値がないんですよね。

生物は一個体というのはもともと生きている価値がないので、どんなに狭く見ても一種族ですね。

人間という種族のために生きてるんですね。

もうちょっと狭く言いますと、例えば日本のために生きている、もしくは家族のために生きている。

これが生物の基本なんですよね。

どんな植物でも群れているわけですね。

生命は群れで形成されている

例えば、ある植物の種をいろんなところにバーッと蒔きますと、ばらばらに蒔いても、その結果として現れるのは、同じような草はどこで咲く、同じような木はどこで生育する、ってなるんですね。

それは、普通は非常にいいところは強い植物が繁茂して、山の上とか砂地とかの悪いところは弱い植物が繁茂するわけですね。

だけども、群れているんですね。

常に、どんなものでも群れています。

群れているというのはどういうことかと言うと、我々の体が細胞でできているように、また日本というのも1億2千万でできているように、常に我々生物は、自分であり他人であるんですね。

幸福感を感じない理由

ですから、自分が満足したのでは幸福感は味わえないはずなんですね。

他人が満足して初めて幸福感が味わえる。

そうすると、自分が満足するのと他人が満足するのとどちらが満足するかというと、私なんかが人間とか生き物とかそういうのを見ていますと、やっぱり私は自分が満足するより、他人が満足するほうが嬉しい感じがするんですよ。

嬉しいという感情は、自分のものには限界がありますね。

せいぜいお風呂に入って気持ちいいなと思ったり、そういう時に幸福感を味わえないわけじゃないんですよ、幸福ではあります。

ただ、何かを買ったなんて、手に入れたなんて、ほとんど幸福感は短いですね。

それに対して、子供のかわいい笑い顔を見たり、それから一生懸命子供を育てていますと、やっぱりこの子がめんどくさい、こんなことをいちいちやるより早く育ってくれたほうがいいと思うこともあるけど、つまり辛いこともあるけど、やはり喜びも格段ですね。

自分が例えば大学に合格したっていうのと子供が大学に合格したっていうのでは、子供が大学に合格したほうが嬉しいんですよね。

自分は、そうかと思うだけなんですね。

それから見ますと、幸福とは、自分ではないんじゃないかと思うんですね。

そうすると幸福を論じる時に、常にその人が幸福かと言う考え方をするわけですね。

あなたがこういう時に幸福だ、あなたがこうなると幸福だ、っていうふうになるわけですね。

あなたが病気をしないと幸福だ、だけども、家族が病気の時のほうが、自分が病気をした時より辛いですね。

自分が病気をしたときは、病気をしたか、仕方ないな、とこういうふうに思えるんですけど、家族が病気をすると、本当に心が痛みますね。

友人でもそうですね。

友達が病気になると、非常に辛い感じがしますね。

自分の幸福は他人の幸福によって決まる

その意味では、実は幸福というのは利己ではなくて利他。

利というのが少し難しいんですが、用語がないというか、幸せという名前を付けると、幸己、自分が幸せか、幸他、他人が幸せかと言うと、どっちかと言うと幸他、つまり他人が幸せかどうかと言うほうが自分の幸せを決定する。

自分の幸せは他人の幸せによって決まる。

だから利己と利他とはちょっと違うんですけど、用語がないという感じなんですよ。

あるかもしれませんね、いろいろみなさんが考えが浮かんだらご連絡いただきたいんですけれども、結局我々の幸福というのは、自分の幸福じゃない、他人の幸福なんだということになりますと、これはもう幸福自体を考え直さなきゃいかん。

要するに、実際的にもそうだと思うんですね。

こねくり回される幸福の議論

そうすると、幸福の定義をあまりあれこれ議論するつもりはないんですが、つまり幸福というのは幸せだなと、よかったなと、こういうことを思うことですから、定義をあまりこねくり回してもよくはないんですね。

定義は非常に大切ですよ、例えば幸いとかラッキーというのは、事実としての状態を言うような気がするんですね。

ところが幸福と言うと、事実とともに本人が満足、主体はどっちかと言うと幸福というと自分が満足、それから例えばラッキーと言うと、これは事実としてよかったというような感じがするんですね。

福沢諭吉が作った日本の幸福

日本の「幸福」というのは、明治時代の福沢諭吉が作ったようで、それまでは幸いとか幸運とかそういう言葉があったような感じがするんですが、いずれにしても幸福というのは、心の動きも含めた、事実と心の両方なわけですね。

しかしあくまでも自分なんですよね。

そうしますと、私は、幸福というのは他人が幸せになったことによる自分の満足感、だから幸福の中には他人と自分の2つが入っているのではないか、だからどういう状態が幸福かと聞かれましたら、それは他人が幸せな状態であると、こういう複雑なことをいろいろ考えてみる必要があるかと、そういうふうに思います。

私は、私の人生を振り返れば、自分の幸福、幸せは幸福感が少なく、家族とか近しい人が幸せになった時のほうが、幸福感は高かったと、そういうふうに私は思いますね。

 
 
 

こちらの記事も一緒によく読まれています

「いいね!」へのご協力をお願い致します!最新情報をお届けします!

コメントを残す