女性の幸福と男性の幸福!セックスと子育て!釈迦やキリストが考える幸福!科学的幸福論 その2 武田邦彦

人間が幸福に生きるための方法

幸福というテーマで少し考えておりまして、最初は動物というものの持つ特性をやりまして、それから前回は利他と利己、つまり我々は自分は幸福であるかということをもって幸福の尺度としようとしていますが、

どうも動物、植物もそうなんですけれども、生物というのは、自分の幸せを幸せと考えるんじゃなくて、同族、同族という範囲がいろいろあるんですが、同じ族の幸福を幸福と思うと、だから自分が幸福かどうかという尺度で幸福を考えてはいけないんではないかという話をしましたが、

今回はまたそういう別の角度からということで、これは生まれと幸福、というふうに読んでいただきたいんですが、そういうものを考えます。

なぜこの時代に人間として生まれてきたのか

人間が現在幸福かどうか、例えば収入が多いかとか、それから伴侶に恵まれたかとか、家族はみんな健康かとか、自分は比較的ちゃんとした生活を送ってきたかというようなことが幸福を決めると思っておりますが、実は人間というのはもう少し大きなものがあるんじゃないかと思うんですね。

例えば、なぜ自分は人間として生まれたのか。

なぜ自分は犬じゃなかったのか。

もしくは、ミミズじゃなかったのか。

自分がミミズではないということは、どういうことなのかということですね。

これはやっぱり少し考えてみなきゃいけないわけであります。

それじゃあ人間として生まれたとしても、時期がありますね。

例えば戦争がしょっちゅう行われている、侍のいる時代に生まれる。

もしくはそんなに遠くなくても、ちょっと100年も前だったら、1920年、今から100年前の日本人の平均寿命は、男女とも43歳ですから、私なんかとうの昔にいないと。

それから戦争もうち続いておりますから、私のような男性は兵隊にとられて、今頃どこかの外地で死んでるでしょうね。

何でちょうど生まれたときに生まれたんだろうか、日本に生まれたんだろうか。

だってアフリカに生まれたら、それこそ平均寿命は50歳くらいですし、病気もあるし、裸で生活して、毎日毎日やっとやっと働いて、少しのご飯を食べているでしょうね。

トイレはもちろん水洗トイレじゃないし、本当に彼らにとってみれば満足できる生活なんでしょうけど、我々にとっては、とても今そういう生活になると嫌だという感じですよね。

なぜ天皇陛下の子供として生まれなかったのか

それからもちろん、なぜ自分は天皇陛下の子供として生まれなかったんだろうか、実はこれは私も非常に強い思い出があって、今から30年くらい前にある人が人生相談に来たのを聞いて、その人は自分の近い人と比較して不満を言ってるんですよ。

自分は不幸だ不幸だと。

あの人はこうだ、この人はこうだ。

その人に、何であなたは天皇陛下の子供じゃないんですかと言うと、ドキッとした顔をして、何言ってるの、という感じでしたね。

ただ、彼が比較していたのは、自分の手の届く人と比較しているのであって、天皇陛下の息子だったら、全然それはもう比較にならないんですよね。

他人と比較して感じる人間の幸福

人間は比較できるものを比較してしまうんです。

人間として生まれた、この時代に生まれた、日本に生まれた、それから天皇陛下の子供ではなかった、普通のサラリーマンの子供として生まれた、男性として生まれた、女性として生まれた、

背は高かったか低かったか、容貌はいいのか悪いのか、健康に恵まれているのか小さいころから体が弱かったのか、いっぱいありますよね。

そういうものを全部、現状を認めて、その狭い範囲の中でちょっとの差を幸福と感じたり不幸と感じたりするというのが、我々じゃないかというふうにも思うんですね。

食べるものにも苦しんだ時代の日本人

例えば私ですと、私は戦中に生まれ、親父は普通の大学の先生だったんですけど、大学の先生の家庭に生まれ、けっこう貧乏で、ごくごく普通の家でしたね。

親父が大学の先生だったもんですから、配給前とかそういうのがほとんどダメで、本当に若いころは食べるのも苦労して、生きてきたわけですよね。

身体も私はものすごく弱くて、ろくに学校も行けなかったわけですね。

だけども戦争が終わった後に生まれました、それから日本に生まれましたから、みんなと一緒に長寿で、だんだんだんだん発展して、所得もすごく世界では多いし、

生活も一戸建ちに住んで、若いうちはアパートの時も随分あったんですけど、長じてローンを組んで一戸建ちに住んで、昔は風呂がなかったけど今では内風呂が、昔は内風呂と言ってたんですけど、風呂が家にあるなんていうのは信じられないことでしたけどね。

水洗トイレはある、この頃はウォシュレットになった、それからチンすればあったかいものが食べられる、ビールも家に買ってある、もう極楽ですよね。

しかしこういうのが整ってくると、今度は人間関係が難しくなってきて、あの人はどうだとかこの人がどうだと言い始める。

いろいろ夫婦間の間、家族の間もみんな昔は一緒に生活して共に苦しんだというのがなくなると、次の不幸が訪れてきたりする。

だから私たちは、どういう基準でもって幸福というのを考えるのか、ということですね。

今の日本に生まれた時点で8割は幸福

もう人間として生まれて、戦争のない時代に生まれて、日本に生まれて、そしたらもうだいたいこれで幸福なんでしょうね。

8割は幸福だと思うんですよ。

選択の余地なく幸福になっちゃってる。

そのあと少しが、少しの20%くらい、自分が選べるもの、自分が選べるものと言っても自分の性格も選べませんしね。

親父がなんだったかというのも選べないし、選べる中のほんの少しでもって、幸福であるとか不幸であるというのを論じてるんじゃないかと思うんですね。

人生50年から100年時代への変化

先ほど言いましたように、100年前に生まれていれば、男性は肉体労働で40を越えれば身体はボロボロ、女性も6人から10人くらいの子供を産んで、もう40歳を越えればボロボロ、43で平均寿命死ぬ。

こういうのが普通であれば、50歳とか60歳で命を落とす人でも、俺はよかったな、50とか60とかまで生きて、というふうに思うでしょうね。

ところが現在みたいに、80までみんなが生きるもんですから、60で命が奪われる人は残念だというふうに思いますね。

どういうふうに自分の幸福、つまり幸福というのはもちろん相対的なものでもあるし、絶対的なそういう運命ですね。

細分化される幸福の中身

人間に生まれ日本に生まれた、この時代に生まれたという、絶対的なポジションというものを忘れて、そして幸福を論じるということになりますと、幸福の中身が細かく細かくなっていくわけですね。

いよいよ細かくなると、今日は家を出る時にちょっと靴を間違えたからこれは不幸であるとか、そういうような桁の話になる可能性もあるんですよね。

しかしそれは本当でしょうかね。

私はまだ結論は全然出ていないんですけど、生きる以外の目的が人間になく、かつ全く目的がなく人間は改善に改善を続けようとする、

そして脳の体積が増大したので幻想を抱くようになり、自分が幸せであれば幸せであるということを言い聞かせて、本当は自分は幸せじゃないんだけど、そういうことになる。

そうすると他人の幸せのほうが自分には幸せが感じられるんだけれども、そうはなかなか思えないという、脳の大脳皮質の論理回路、ゆがんだ論理回路の命じるまま、誤解した人生を送ってるんではないかとも思われるんですね。

今の幸福とはどういう定義なのか?

いろんな視点で動物と生物との関係、利他と利己の関係、それから今度は人生の生、性格というものが改善だけを求めている、だから改善していないところでの生活はやっぱり満足は十分には得られない。

その中で幸福とはいったいどういう定義なのか、ラッキーなのか、ラッキーというのはただ運ですよね。

しかし、我々が考えている幸福というのはもう少し精神的で、全体的ですよね。

単なる1つ2つがラッキーであるんではない。

幸いと言うよりは幸福と言った方が、まだ哲学的に深い。

人生死ぬときに、俺の人生よかったなというようなのが幸福なんでしょうか。

しかしそれもちょっとはっきりしませんね。

貧乏でも幸福になる。

それは本当にそうか、そう思いたいという気持ちはあるけど本当にそうか、ということも1回は、自分が悔しいからというんじゃなくて、1回厳しく考えてみるということもいいんじゃないかと思います。

鉄の鍬を手にした人類

人類は紀元前、最初は1300年くらいなんですが、紀元前700年くらいになりますと、鉄の鍬が行き渡るわけですね。

文明の発達しているところには鉄の鍬が行き渡る。

そうすると、それまでは石を削って叩いて少し平らにして、それに木の枝を縄で括り付けて、それで土を耕してたんだから、それは大変なんですよね。

一家の主が一生懸命汗水たらして働いて、やっと一家と赤ちゃんを食べさせて行けるという、そんな状態だったわけですよね。

王様や貴族や宗教家の正体

だからそれから今度は鉄の鍬ができて、サクサクと耕せるようになると、飛躍的に食糧増産ができて、それで暇な人が出てくるわけですね。

暇な人は王様であり貴族であり、思想家であり宗教家であり、軍隊なんですよね。

東京都民を9割の人が必死で支える日本

ですからそれはあまりいいことじゃなかったんですが、1割くらいの人が社会の上にいて、ほとんど何もしないで生活をし、今の東京みたいなものですね。

東京は食料自給率1%ですから、東京の人みたいなものですよ。

それにして9割の人が一生懸命支えるという、そういう社会ができたわけですね。

それが3000年も続いたんですけど、そういう社会になった。

そうなりますと暇になって、何が幸福かと考えるというわけですね。

釈迦とイエスキリストの登場と幸福

それで今に残っている1番ちゃんとしてるなと思うものが、私が思うんじゃなくて、歴史的なフィルターにかかって残ったものって言ったほうがいいんですが、それはお釈迦様とイエスキリストでしょうね。

ムハンマドは紀元700年ですから少し最近なので、この2人がどういうものを幸福かと思ったかというのを見ますと、つまり幸福というのは2つあるというわけです。

1つは、誰かが言ったものをそのまま正しいと思って、それが真実だと思って信じ込むというのが1つと、もう1つは科学的根拠でもって自分で幸福というものを考えるという、2つあるわけですね。

自分で幸福というのは何かを考えるにも、お釈迦様とイエスキリストを参考にしてもかまわないわけですね。

お釈迦様とイエスキリストは人間じゃないか、それとも人間じゃないに近く偉いということですので、神様に近いということなので、この2人を取りますと、

お釈迦様がまず何を言ってるかと言うと、一切皆苦、人生というのは思うとおりいかないよと、思うとおりいかないということを理解するんだというわけですね。

本当に思うとおりいきませんね。

自分は一生懸命働いたのに、何でここで俺が切られるの、あいつより俺の方が働くのに何であいつの方が先に出世するの、山ほどありますよ、女の人だったら、これだけ一生懸命買ってあげてるのに旦那は何だと、文句がありますよね。

一切皆苦なんですよ。

人生は思うとおりいかないんですよ。

思う通り行かないと思うことができないというのが、辛いと言っているわけですね。

幸福にならないと言ってるわけですね。

それから諸行無常である。

物は変わっていくんだと、小学生だったらそのうち中学生になるんだ、中学生だったら、これは私は自分の子供の時にはよく分からなかったんですけど、孫を見ていますと、本当に1歳2歳3歳と、1歳ずつ全然違いますね。

諸行無常ですよ。

だけど2歳の孫が2歳のままいるということもできないんですよ。

やっぱり3歳になるんですよね。

だから諸行無常なんです。

これも本当にそうだ、今日は続かないんだ、今日は今日1日だけなんだ。

世の中は思う通りいかない、全部物事は移りゆくんだ。

簡単に幸福になる方法

この2つだけでも毎日毎日唱えたら、多分幸福になるでしょうね。

諸法無我、いろんなものが因果関係でつながってるんで、つながっていて変化するんだと、だから単独ではないんだということですね。

私が利己と利他というのと一緒なんですけども、そういうのが全部できれば、般若寂静というのかな、ゆっくりして幸せが来ますよと、悟れますよと、こんな感じですね。

だから一切皆苦、諸行無常、諸法無我。

これはお釈迦様が長い修行を通じて直感で分かったものであって、科学的に論理性があったかどうかわかりませんが、多少あったんでしょうね。

イエスキリストの山上の垂訓

これに対するイエスキリストですけど、これはやっぱり山上の垂訓でしょうね。

山上の垂訓という有名なのがあるわけです。

イエスが群集を引き連れて山の上に上って、山の上でみんなに語ったという、非常に有名な山上の垂訓というのがあるんですけど、ここでこう言ってますね。

心の貧しい人たちは幸いである。

天国は彼らのものであると。

悲しんでいる人たちは幸いである。

彼らは慰められるであろう。

それからいろいろあるんですが、憐れみ深い人たちは幸いである。

彼らは憐れみを受けるであろう。

心の清い人たちは幸いである。

彼らは神を見るだろう。

こういうふうに言っておられるわけですね。

イエスキリストが考える幸福とは

これは2つに分かれますね。

1つは現在不幸な人、貧しい人、悲しんでいる人は、そのうち良くなるよと言ってるわけですね。

だからこれは一切皆苦、つまり人生が思うようにならないから貧しかったり悲しかったりすることがあるんだけれども、諸行無常、やがてよくなるよと言ってるわけですね。

それから、もともと心が清かったり憐れみ深かったりする人は、これはやっぱり報われるでしょうねと、こういうふうに言ってるわけですね。

これは無理やり言えば、憐れみ深いとか心が清いということが、憐れみを受けたり神に近かったりするという、そういう因果関係があるということを言ってるわけですね。

ですから言い方は違うんですけども、イエスキリストがおっしゃっていることは、お釈迦様がイエスキリストの500年前に言われたこととほぼ同じ、ということなわけですね。

お釈迦様は一応天国とは関係なくて、人生の中で幸福を見つけなさいと、悟りを見つけなさいと言っているわけですが、イエスキリストはちょっと宗教的なので、あなたは天国に行けますよという言い方で同じことをおっしゃってるんじゃないかというふうに思うんですね。

こういうふうに考えますと、宗教的な幸せというのもあるわけですね。

ただ私がここでちょっと苦言を呈しますと、お釈迦様とイエス様が言われた、幸せとは何か幸福とは何かというのは、これは2000年の時を経って、まだ人の心に残っているわけですから、

それからおそらくお釈迦様もイエス様もその後のお弟子さんの様子を見ると、大変に神様に近い人だったということが分かるので、これを直接利用させていただくというのは大変に素晴らしい。

キリストを都合よく利用するローマ法王

だけども、その後の人が書いたものは僕はあんまりあてにできないと思うんですよ。

偉いお坊さんが書かれたものも、読むと確かにそうだなと思うんですけど、それがお釈迦様とちょっとニュアンスが違いますと、

僕はお釈迦様が言われたことを、ニュアンスを変えるだけの力が後の坊さんにあったのかなと思ったりしますし、

キリスト教の人には大変恐縮なんですが、私はイエス様が言われたことは非常にそうだなというか、理解できなくてもそうだなと思うべきだろうなと思ってるんですね、神様に近い人ですから。

あるいは神様かもしれませんし。

しかしローマ法王がこう言われたと言っても、ローマ法王って、僕が読んだイエス様が聖書の中で語られている、いけないことをしているんじゃないかっていう気がするんですよね、権威をつけていいとこに住んで。

だからその人が幸福はこうだと言われても、あなたが言うんだったら、イエスキリスト様が言っている聖書に書かれたことを、そのまま私は幸福だと思う、っていう感じなんですね。

だからこのお釈迦様とかイエス様が言われたことというのは、私がここで展開しようとしている、幸福とは何かということの中に、入れさせていただきたいと思っているわけです。

つまり、これもある意味での科学的根拠なんですね。

幸福を探求する上での1つの参考資料

例えば動物がこうするとか、男性と女性がこうだとか、それからお釈迦様とイエス様がこう言われたということは、いずれも私たちが、幸福と考えるものを探求するうえでの、1つの参考資料と言ったら怒られちゃうんですけど、そういうものだということですね。

最終的には、それを我々は咀嚼しなければいけないですね。

私はよく講演なんかで言うんですけども、仏教を信じている人とキリスト教を信じている人がいるんですけど、僕はちょっと傲慢じゃないかという気がするんです。

こんなことを言うとまた問題なんですけど、つまり仏教を信じるかキリスト教を信じるかというのは、自分より上の人、お釈迦様とかイエス様を比較して、どうもイエス様のほうがいいからキリスト教、という感じもするんですよね。

そうしますと、自分より実力が上の人を評価できるかということになるので、僕はお釈迦様も偉いんで、どのくらい偉いか分かりません、イエスキリストと比較することなんか到底できません、両方共一応参考にさせていただきますと、こんな感じになります。

ここでは非常にフリーに考えていますので、科学的根拠か直感かというのも含めまして、ここでは宗教的な考え方というのをまとめてみました。

女性の幸福と男性の幸福

この幸福の問題を考えるにあたって、ずっとこれまでは男性も女性も一緒にしてやってきたんですけれども、やはり女性の幸福と男性の幸福というのは、相当違うんじゃないかと思うんですね。

これを無理やり人類だからというくくりをしますと、やっぱりちょっと無理があるんじゃないかと、したがって男性と女性の幸福を全く別に、いわゆる幸福論というのは2つに分けなきゃいけないんじゃないか。

つまり女性の幸福は女性の幸福として検討し、男性の幸福は男性の幸福としてやらないと、男女同権だとかそういうのが決まってるんで、男女同権というのは権利は決まってるんですが、幸福というものを対象とする場合は違うんじゃないかと思うんですね。

女性だけが持つ子供を産めるという能力

男性の体と女性の体となぜ違うんだと、一緒にして論じなきゃいけないじゃないかとか言ったって、それは同じにならないんですからしょうがないですね。

女性の一生というものは、生物として極めて重要なこと、つまり子供を産み子供を育てる、それから人間の場合だけは、人間のメスの場合だけは閉経後生存しますので、お世話をするという、

したがって子供を産み子供を育てお世話をするという、3つの非常に大きな柱で成り立っておりまして、この仕事がものすごく重要なものですから、他の能力を犠牲にして、減らして、女性というのは体を作っているわけですね。

例えば筋肉は最低限である、それからその他のいろんな機能、頭脳の機能なんかもそれほど発達させない、そうしておかないと、例えば男性のように何もやることがなければ、筋肉を発達させ、血流を増やし血圧を上げ、いろんなところに活動ができるわけですね。

頭脳活動もできるし、いろんな活動もする、筋肉労働もする。

すると女性の場合は、頭脳活動、筋肉労働、できるんですよ。

だけどそれと、子供を産み育てるというものとが両立しないんですよね。

両立しようとすると、現在の女性の体を2倍くらいにして、血圧も200を超えるということをしなきゃいけないんですが、

そういうふうにするよりか、子供を産むのに集中しようということで、身体もやや小ぶりであり、血流も少なく、カロリーの消費を抑えるということですね、自分自身のカロリーの消費を抑えて、おなかに子供ができたときにそれに応じることができるという体の構造をしているわけですね。

女性と男性の子育て

ですから女性の一生は、結婚までは健やかに育ち、結婚して子供を産み、2人は最低産まなきゃいけませんから、種族が続きませんから、平均3人としますと、3人産み、そしてその子たちを育て、

育てるのは男も育てたらいいじゃないかって言うけどこれは間違いで、男性は性格的にも1番極端には哺乳動物のオスの、父親の子殺しというのがあって、子供を育てるには向いていないんですよ。

もともと全然向いてないんですね。

性格的にも体も向いてない、これは向いてないから男性が子育てをサボるとか、そういうんじゃなくて、全然そんなケチな話はしたくないんですね。

母親と父親の幸福

それで幸福な子供が育っていくときに、本当に無上の幸福を感じるわけですね。

無償の愛ですね、お母さんの無償の愛。

そして子供たち孫たちに囲まれて、幸せな一生を過ごす。

ここには男性は出てこないんですよ。

夫婦は出てこないんですよ。

ここは間違えるから、女性は若いころ健やかに育ち、子供を産み子供を育て、孫やなんかの世話をしながら、それに囲まれて幸せな人生を送る。

女性中心ですね、もちろん。

じゃあ男性は何かというのは難しいんですよ。

男性はまず、幸福という状態が存在するかということを考えなきゃいけないんですね。

動物、哺乳動物を例えば考えてみますと、一夫一妻のものもいますよ。

例えば熊を考えますね。

熊は連れ合いというのがいるんですけど、いつも一緒じゃないんですね。

母親と子供は一緒ですが、父親はセックスの時だけいて、あとはもういないんですよ。

狼なんかは非常に仲がいいので一緒に住んでいるように見えて、メスの生活とオスの生活は全然違うんですね。

メスは子育てをする。

オスは敵と戦うのとエサをとってくるということで、全然バラバラなんですね。

これはほぼどの動物でもそうなんですよ。

だからもともと動物というのは女性と男性を、メスとオスを合わせて一種類じゃないんですよね。

メスが中心でオスは外側にいるというのが、もともと動物の形なんですね。

人間でも、亭主元気で留守がいいというのは、あれは本当のことですね。

誠に、生き物としての人間としての本性をよく表しているわけですね。

幸福を感じる事が出来ない男性

私は男性なものですから、男性は幸福を感じることができませんね。

男性は葉隠れじゃないけど、死ぬことと認めたりというか覚えたりというか、そんな感じですね。

つまり、男性は死ぬことを目的に生きているようなもんなんですよ。

子供も自分で産むわけじゃない、育てるのもろくなことじゃない、敵が来たら戦って死ななきゃいけない、これは例えば小学校4年生の副読本にあるように、10匹の魚の群れがいると、全部メスなんですね。

そのうちの1番体の大きいメスがオスに性転換して、全部身体もオスになりますね。

それで群れを守る。

敵が来ると、そのオスは外敵と戦うわけです。

メスはその間に岩陰に隠れるわけですね。

オスは何回か戦ってるうちに死ぬわけです。

つまり、オスの幸福というのは死ぬことなんですね。

それで10匹が9匹になると、今度9匹のうちの1番体の大きいメスがオスに変わって、群れを守りますね。

これは普通のことなんですね。

つまり男性の幸福というのは何かというと、死ぬことなんですよ、死ぬこと。

死ぬことっていうのは幸福かと言うのは難しいわけですね。

それじゃあ幸福は、男性の生物学的な幸福は存在しない。

女性が味わえる人生の幸福

そうすると認知的幸福、つまり人間の大脳が発達してるがゆえに、幻想としての幸福は存在するかもしれないですね。

つまり、女性の幸福というのは、身体の幸福なんですよ。

本当の人生の幸福なんです。

それから、男性の幸福は幻想の幸福なんですね。

だから幻想の幸福は、身体の幸福は死ぬことだから、これは幸福にならない、すると男性の幸福というのはそれ以外の幸福、つまり頭で考えて幻想の社会を作って、幻想の社会だけで幸福を得るようにするということですね。

男性が喜ぶ仮想的な幸福

例えば学問が好きだ、スポーツが好きだ、スポーツも私、野球を全然バカにしてるんじゃないですよ、野球選手の有名な野村監督、のちに監督が言ったように、たかが野球、されど野球、これが男性の幸福なんですね。

たかが野球なんですよ。

だいたい、ピッチャーが投げたやつを打つとか、3球空振ったら三振なんて、何の意味もないわけです。

一塁ベースまで何メートル、これだって全然意味がないんですよ。

だから、たかが野球なんですよ。

なんであんなのに熱中するの、だけどされど野球。

つまり、これは仮想的な幸せなんですね。

野球で優勝するっていうのは、もう無上の喜びなんですよ。

これは仮想的なんですよ。

つまりたかが野球、されど野球なんですよ。

ところが、女性の幸福はたかがじゃないんですよ。

子供を産むのにたかが子供じゃないんですよ。

それこそが目的なんですね。

だから女性の幸福は実体的な幸福であり、男性の幸福は幻想の幸福である、絶対に一緒にして論じてはいけないと思いますね。

その意味では、男性と女性を人類という言葉でひとくくりするのがいけないんで、女性が第一人類、男性が第二人類としたらいいんですね。

本当はこれ違うんですよ、女性は第二人類がいいんですよ。

つまり女性というのは、実質を握っていますから、形式は全部男性に譲るということでうまく行くようになってるんですね。

ですから女性は自分たちが第二人類だと言っておいて、第一はある意味ないからねというのが、女性としての特性ですから、女性の幸福を考える時は、逆に女性は第二人類、男性は第一人類と言ってもいいんでしょうけど、

そう言うと、変な「女性の権利は」とかいう人たちから反撃を喰らうので、ここはゴマをすっておいて、女性が第一人類、男性が第二人類、もしかするとちょっと言葉はいけないんですが、女性は女類、男性は男類と言ったほうがいいでしょうね。

それくらい大きく差がある気がするんですよ。

人間の男性とサルのオスの方が、おそらく幸福ということを考えるには近いんでしょうね。

人間の女性とサルのメス、これは非常に幸福状態が似ていると思うんですよ。

だけど人間の女性と人間の男性というのは非常に離れている、というふうに思います。

 
 
 

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