SEXと幸福!日本人が幸福を感じない理由!日本人の平均的な幸福!科学的幸福論 その3 武田邦彦

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なぜ人間の寿命は異なるのか?

いろいろなことを考えます時に、普通に言われていることですね。

誰か1人くらいどこかで、世界の隅のほうで言っているかもしれませんが、主流じゃない考え方、それの方に突っ込みますと、そこで急に大変になってくるというか、私は物を考えるのは大変じゃなくてなかなか楽しみなんですが、それでも困難を伴いますね。

研究でもそうで、アメリカなんかでやった研究をもう少し良くしようという時は月明かりの中で物を探しますから簡単なんですけども、世界で自分が最初にやろうという時は、どうしても暗闇の中を歩くようになるものですから、突然難しくなるわけですね。

この幸福の問題も、今まで動物の幸福の話とかいろいろしてきましたが、まだ何となく、私が今まで幸福のことで勉強したり耳にしたりしたことに近いわけですね。

ところが今日やる幸福はずいぶん難しくて、どういうふうになるか分かんないなと思いながらスタートするわけですが、例えば物理的に言うと、多数の集団は確率的に動きます。

抽象的なことを言うと分かりにくいので具体的なことを言いますと、日本人1億2700万人いますと、そのうち必ず不幸にも早く亡くなる方が、どうしてもいるんですよ。

それから病気になる人もいるんですね。

それから、120歳くらいまで生きられる方もおられるんですね。

それからインフルエンザが非常に流行した場合でも、インフルエンザにかかる人とかからない人がまたこれも、どうしてもいるんですよ。

集団が持つ確率性

この多数の集団というのは、非常に面白い性質を持っていまして、10人くらいですと、10人全員が例えば背が高いとか、そういうことはあるんですけど、多数になりますと、背が低い人もいれば背が高い人もいるというふうに、どうしてもなるんですね。

じゃあ、その背の高い人なら背の高い人がいなくなるとどうなるかというと、やっぱりまた背の高い人が1人出てくるんですよね。

そういう多数の集団は、常に確率的なんですよ。

そうしますと、私はもともと統計物理学というか、そっちのほうなものですから、どうしても動物の集団、人間の集団、それから宇宙、宇宙でも小さい星もあれば大きい星もある。

何で小さい星と大きい星があるのか。

星というのはだいたい似たようなものでできていますし、似たような作り方でできるから同じような大きさになると思ったら、全然違うわけですよね。

これは普通には分布って言うんですね。

分布なんです、分布があると言ったほうがいいですね。

多数の集団は分布がある。

ここで確率的であると言ったのは、実は幸福論を述べる時、1億2700万の人間のうち、真ん中、中心を取るのかどっちかの端を取るのかで幸福が全然違ってきちゃうんですよ。

日本人の平均的な生き方

つまり言ってみれば平均的な日本人、小さいころから普通に風邪なんかも引きながらお母さんとかおばあさんのもとで育って、小学校くらいから高校くらいまで行って、高校もやっと県立高校に入るか、もしくは私立に行くか、大学もそこそこの大学に行くか行かないか、そして就職をして、

男性でしたら就職をして結婚をして家庭を持って、といった人と、女性だったら例えば結婚して、結婚してというのが難しくて、女性で結婚する人ってだいたい今80%くらいなんですが、

80%の人の幸福を論じる場合は結婚して、と言って幸福論を述べればいいんですけど、20%の人の結婚していない人、結婚しても子供のいない人っていうのが、必ずある割合いるんですよ。

幸福論はどっちなんだ、と思いましたね。

幸福論はどっちなんだと思って見ますと、なかなか面白いんですけど、

宗教の幸福論が対象とする人

まず非常に極端なのは、宗教的幸福論の場合、お釈迦様はちょっと違うんですけど、宗教的幸福論の場合、例えばイエスキリストなんかがそうなんですが、非常に分布の確率的に悪い人、言ってみれば運の悪い人に焦点が当たってるんですよ。

運の悪い人、あなたも幸福だよ、神の国に行けるから、とこういうふうになっているわけですね。

今度はすごく幸福な人、あなたは金持ちだから天国行けないよ、とこうなっているわけですね。

すると真ん中は、と言われると、真ん中の人は、っていう感じなんですよ。

釈迦の幸福論が対象とする人

ところがお釈迦様になるとどっちかというと、お釈迦様自身は王様ですから、王様のところに生まれた王子様ですから、言ってみれば分布の金持ちの、幸福の方にいる人なんですけど、だいたい教えとしてはちょっとインテリ的というか、ちょっと金持ち的かもしれませんね。

例えば、一切世の中はうまく行かないとか、だってお釈迦様の言う一切うまく行かない、諸行無常である、因果関係があると言った、こういった基本的な教えというのは、どっちかと言ったら余裕があって、食うに困らないからですよね。

食べるのに困ったら思うようにいかないって、もともと世の中思うようにいかないよっていうことになるわけですよね。

ですから、確率的にどこを論じているのかということがはっきりしなきゃいけないですね。

例えば幸福論を述べる時に、今から話す幸福論は5歳の時に不運にして重い肺炎の病気になり、それによって片方の肺が使えない人の幸福論です、とか、

今から述べる幸福論は非常に運動神経があり、プロ野球で名声を博して、一生悠々自適に過ごした人の幸福論ですと、こういう幸福論。

ごく平凡な人の幸福論

ところが普通は、標準的な人、っていうとまた難しいんですよ。

標準的な人。

例えば幸福論に、幸福論の論文を読みますと、1番最初に、今から述べる幸福論は、かくかくしかじかの人間を想定して幸福論をしゃべっている、と。

例えば極端に言えば、生まれてすぐにお亡くなりになる赤ちゃんの幸福論だと、わずか1年とか半年の間の幸福を論じないといけないわけですね。

ですから、なかなか全然言っている幸福論が話にならないわけですね。

自分の幸福論と確率論

そうすると、今度はそういう幸福論という学問をいろいろ考える上でのことに加えて、今度は自分の幸福というのを考えたときに、やっぱり幸福論を読むと、幸福論と自分とを比較しちゃうんですね。

そうすると、自分が幸福ならいいのか、それとも自分が所属する集団、例えば自分の家族、もしくは自分の国、これが幸福ならいいのか。

いいのか、というか、それが幸福であるという状態を私自身は気をつけているのかというと、だいたいおぼろげには自分なんですよ。

おぼろげには自分。

だけど、自分というのは今度確率論が入っちゃうんですね。

だって、自分が日本全体のどこに所属しているか分からないですから。

日本人の平均的な幸福

ところが、日本の幸福、日本人の幸福と言ったらまあまあいけるんですね。

というのは、日本人1億2700万人全員が、人はそれぞれ違うけれども、最も全体としての幸福の和が1番最大になるところを幸福という、というふうに定義すると、こちらの方は、1億2700万もいれば、一応大丈夫なんですよ。

どのくらいいればいいかというと、集団というのは1万人くらいなんですね。

統計物理学で非常によく議論することなんですけれども、1万人から10万人くらいになりますと、統計的な取り扱いができるというんですね。

分布がどうであるとか、どういう人がどのくらいいるとか、どういうものがどれくらいあるというのが議論できる。

だから、1万人から10万人くらいいると、こういう統計的な考え方ができる。

そうすると、自分は幸福である。

しかし、日本は幸福でない、もしくは自分の家族は幸福ではないというときに、幸福論というのを考える時に、どこに基準を取るかということですね。

ちょっとこれはややこしいんで、理解が難しいかもしれませんが、自分はこういう幸福論で幸福である。

しかし、家族はこういう幸福論では幸福ではない。

例えば、非常に簡単な話なんですが、女性は子供を2人持った状態が幸福だ、というと突然、じゃあ私は子供がいないから不幸か、とこうなるわけですね。

いやそうじゃない、と僕は言うわけですね。

1万人の結婚した女性がいれば、必ず子供が生まれないお母さんが100人とか500人とかいるんだ。

その人がいるからこそ、今度は逆に3人4人の子供を持つお母さんがいるんだと。

だからあなたがいなければ全体は構成されませんよ、と言うけど、そういうと難しいんですよね。

そうすると、女性は子供2人でどうのこうの、子供がいることが幸福であるという幸福論は無意味なんですね。

じゃあどういう幸福論が大切かと言うと、子供がいない人もいる人もいるという幸福論になりますから、そうするともう1個引かなきゃいかないんで、非常に難しい。

今それを一生懸命考えております。

何かこれから資料があれば、と思っております。

SEXと幸福

今日はSEXと幸福ということで、ちょっと非常に口に出すのもはばかるような、そういう題目がついておりますが、

実は非常に不思議なのは、キリスト教とか仏教も、それほど明白には書いてないんですが、だいたいお坊さんは、親鸞聖人のような、やや特殊と言ったら失礼なんですけども、偉いと言うか特殊と言うか、そういう人を除いては、どちらかというと妻帯してはいけないという感じがあるんですね。

キリスト教では特にそうで、だいたい牧師さん、神父さんは基本的には独身なんですよね。

なぜ独身かと言うと、セックスが罪悪感を伴うからなんですね。

SEXと罪悪感

セックスが罪悪感を伴うということは、非常に不思議なことなんですね。

というのは、我々はセックス失くしては、子孫が生き残らないわけですから。

だから人間という種を保持するには、セックスが罪悪なはずがないんですよね。

ところが、どうしてもセックスというのは罪悪感を伴うんですね。

男性はセックスした後に非常に強い罪悪感を感じますし、女性は恥ずかしいという気持ちが常に付きまとうわけですね。

何か隠れてやらなきゃいけない、実際にそうなんですけど、隠れて行為をしなきゃいけないという、隠れてしなきゃいけないんですから。

だから、やっぱりこれは罪の意識がある程度あるんですね。

それは女性では恥ずかしいという心ですし、男性ではややどちらかというと罪の意識というのが基本にあるんですね。

なぜSEXに罪悪感があるのか?

じゃあなぜ人間はセックスに対して罪の意識を持ち、恥の意識、罪の意識、どっち言ってもいいんですけど、それを持って、宗教なんかが妻帯を禁止したりしているかということですね。

これは現代の生物学、もしくは考古学、もしくは文化論、こういったものを全体として見ることになるわけですね。

動物の性欲と人間の性欲

男性の性欲というのは、もともとは我々はサルですから、オス側に性欲があるはずなので、その場合メスは通常着飾らないわけですね。

どちらかというとオスの方が立派で、メスは目立たないわけですが、これは生物共通なんですね。

ところが男性の脳が発達して、本能が隠れて、いわば性欲に対して負の感情を持ち、性欲自体が曲がってくるわけですね。

ところが女性は子供を作らなければいけないものですから、ここでハッスルして女性の方から男性を誘うセックス、誘導型セックスに変わっていくわけですよね。

誘導型性欲に。

そのために男性はどうしても罪悪感を伴いますし、女性は恥辱心があるということで、セックスが何か闇のものとして存在するということなんですね。

社会的にはいろいろ離婚騒動だとか、赤線の問題とか、女性虐待の問題というのを生じますから、そういう点でもやや△なわけですね。

種の連続を妨げるSEXへの罪悪感

だから人間の人生でかなり深く考えなきゃいけないのが、子供を作るために、つまり人間という種を連続させるために1番大切な性欲が、罪悪感を伴っているということですね。

そして、もちろん幸福論ではそういう背景がありまして、ほとんど性については述べられないんですよ。

もちろん先ほど言いましたように、人生の幸福と人間の幸福の生きざまというものを教える、キリスト教とか仏教とかそういったものでも、ややそういう性的な活動というものを罪悪感のあるがごとき扱うことが多いんですね。

さすが、イエスキリストが誕生されて700年経って出てきた、イスラム教ではもう少し現実的で、僧侶というのはもともといないんですけれども、子供を作る行為をあえていけないこととは言ってないんですね。

不労所得は禁じられておりますが、一応世俗的なことで、それまでの宗教がどちらかというとやや罪悪感を持って話していた、子供を作るための性欲だとか、それから楽な生活をするためのお金の問題と言ったことを、より合理的にイスラム教なんかはなっているわけですね。

疑問を感じる宗教家の幸福論

しかしこういう状態を見ますと、ここまでずっと幸福というのを考えてきたわけですけど、

いわゆる世の中にある宗教、もしくは哲学者だとか、いろいろ社会学者がお考えの幸福論というのは、科学的に合理性を持っているかという点で、ちょっと疑問を感じざるを得ないわけですね。

というのは、我々が自分で考える、自分の頭で考えるものというのは、既にそこで人間の進化の歴史とか、前の人間のもとの動物の時の倫理観とか、そういうものを引きずっているわけですよね。

それがこのセックスなんかに1番強く表れて、人間という種が継続するのは倫理的に絶対正しいわけですよね。

そうしないと、子供が産まれなかったら、50年くらいでたちまち人類はなくなっちゃうわけですから、100年で必ずなくなるわけですから。

だから、それはセックスが悪いことであるはずがない。

だけども、人生の幸福を教えるための宗教が、妻帯、坊さんとか神父さんの妻帯を禁止する、つまり神父さんと坊さんというのは、宗教的にいいことをやる。

いいことをやる人が、人類は絶えてもいいんだということになるんで、非常に大きく矛盾しているわけですね。

これはたまたま、今日引き合いに出したセックスというものを取れば、おかしいなということになるんですが、

実は我々の感覚とか、何がいいとか何が悪いとか、そういうふうに言っている中には、全然我々が考えているような、暇な人だけというか、生きることそのものの幸福ではなくて、暇な人だけの幸福、つまり生物的にはあまり関係のない幸福を、ただただ追求して、

それが頭の中で考えるものですから、あるいはセックスは非道徳的であるとか、おそらくそういうことがいっぱいあると思うんですね。

他の動物を圧迫して生きる人間

例えばお金を貯める、お金持ちになるのは非道徳的であると言われることもあるし、他人を圧迫してはいけないという人もいるし、しかし動物というのはすべからく他の動物を圧迫しているわけですよね。

だから他の動物を圧迫することによって、その種を保つわけですね。

人間は現在のところきわめて強力な動物種なので、他の動物を保護しようとか、保護するという言葉自身がやや上から目線なんですが、自然を大切にしようとか、そういう生意気なことを言っているわけですが、

それは人間という種が特別に強くて、もうすでに現在、どんなに人間と他の動植物を平等にしようと思ってもそうならないという満々たる自信が、

人間の自分勝手な幸福論

結局自然を大切にすることがいいことだとか、他の動物を保護することがいいことだとか、絶滅しそうな動物を積極的に保護しなきゃいけないといった、完全に上から目線の議論になってくるわけですね。

その意味では、我々がいろいろ考えている、幸福、及び幸福は何かということについても、

生物学的に我々が規定された範囲内でもがいているとか、それから非常に上から目線で、悠々たる生活をしている、生活に余裕があり暇がある人だけの特有の倫理観とか、そういうものに依存している可能性があると思うんですね。

またちょっとあとで展開いたしますが、実は幸福というのは人によって違うわけですね。

人によって違うとは何かと言うと、落ちこぼれた場合の安全策とも取れるんですよね。

こんなことを言いますと非常に武田は冷たいと言われるんですけれども、科学というのは、とことんきちんと考えて、それにも負けない精神力とか、自分の信念とかそういうのを持つということが大切なわけですね。

事実に切り込むにはどうしても胆力が必要だと、そんなふうに思うんですね。

単純な幸福論は成り立たない

私の感じでは、いわゆる単純な幸福論というのは、当然だけど成り立たないと。

単純な幸福論であれば、普通の人だったらお釈迦様、ちょっと運が悪い人はイエスキリスト様の言っておられることを反復理解したら、だいたいそれで幸福に達するというわけじゃないかもしれませんが、そういうふうになるし、

幸福に対する見方とか考え方というのは、人によってものすごく違うので、一般的にそれが幸福であるという状態を特定することは、非常に難しいということであります。

分布の問題もあり、いろんな問題がそこに潜んでいる。

科学、サイエンスとして考えなければいけない、哲学として考えなければいけない、もしくは人間として考えなければいけないということが非常に多いということが、当たり前ですけどこれまでの検討で分かったわけですね。

他人への幸福の押し付け

さらに、むしろ幸福、自分の状態での幸福というものを考えて、他人に幸福を押し付けるという場合が非常に多いわけですね。

私が最近よく言っているのは、タバコなんですが、タバコを吸う必要のない人、僕なんかもその1人なんですけれども、頭の中がタバコがなくても整理できる人は、タバコが嫌だという。

しかしタバコを吸う人はやっぱり、自分の人生にはタバコが必要だな、自分の幸福にはタバコが必要だなと思いますよね。

私はそれ以外にお酒を飲みますので、お酒がない人生ってちょっとやっぱり嫌だなと思いますよね。

女性の幸福の広がった選択肢

それぞれいろいろで、どういう状態が、昔は女性なんかは結婚することが幸福である。

今はそうじゃなくて、結婚するかどうかはご本人が考えることだというふうに、幅が広がって参りました。

政治家が国民に押し付ける幸福

しかし今社会を見ますと、それがダブルトラックで走っていない気がするんですね。

時に政治家が、特に政治家が国民に幸福の形を押し付けるという場合もありますし、ある意味じゃ政策というのは、幸福の形というものによりますから、

しかしそれは広い人が受け入れられるような、もしくは強制力を伴わないような政策でなければいけないわけで、特定の人の特定の人生を幸福であるというふうに規定するというのも、問題であります。

明日への希望

ここは明日への希望ということなんですが、今日は今日の収入が多ければ人間は幸福なのか、それとも今日より明日の方がよくなるという希望の方が優先するのかということを、ちょっと考えてみたいと思うんですね。

日本の平均的な幸福

昔から、実は所得と幸福というのはずいぶん研究がありまして、何回も何回も言われるんですけど、現在ではだいたい、世界中ですけど、日本の価格で年収600万円くらいで4人の生活をする。

例えば夫婦と子供2人とか、子供1人でおばあさんがおられるとか、そういった家庭が、最も所得と幸福については、平均的にですよ、これもあくまでも平均的にですが、平均的には幸福であるという見方が主流なわけですね。

金持ちになれば幸福なのか?

これに対して私が1回テレビで言いましたら、一緒に出ている方から、何でお金持ちは幸福じゃないんですか、という質問がありました。

これについてはいろんな説明がありますが、例えば1つは、お金を失ってしまうということがあるんですね。

失ってしまう恐怖心。

これが1番多いというふうに言われておりますが、例えば年収2000万なんていうと、普通に使っていると余りますので、貯金をする。

貯金をすると、その貯金がだんだんだんだん貯まって5000万円になる。

5000万円を株に投資したりする。

すると、株が暴落すると一気に失う。

人間というのは、1回自分の手に入ったものを失うと、非常にそれが苦痛なんですね。

そういった、金を失う苦痛。

家族がバラバラになる理由

それから、家族がバラバラになるということも言われておりますね。

年収が600万くらいですと、家族で一緒にドライブをするとか、家族で一緒にどこかに買い物に行く、ディズニーランドに行くっていうことが普通なんですね。

そうでなくても、今日は子供が誰々の友達とどこかに行くのをお母さんが見送る、というか行ってらっしゃいね、という感じになる。

ところが、年収2000万円くらいになりますと、どういうことになるかというと、お金に余裕がありますから、夫はどこかゴルフに行く、奥さんはテニスに行く、娘1人はどうする、というふうになっちゃって、それぞれが別々になりますね。

これは私の経験では、昔アメリカ人が日本に住みだしたとき、今から40年くらい前ですが、その頃はアメリカは非常に部屋の数が多くて、日本は居間があって、みんなが居間に集って、何だったら兄弟は一緒に寝るという、そんなんだったんですね。

あるいは寝室が1個とか、1個半という時代だったんです。

その時代に日本に来たアメリカ人がよく言っていたのは、日本人はいいね、家族が一緒で、って言うんですよ。

そして、私のところなんかは家族がバラバラで、娘はどうの息子はどうのって言ってるんですね。

だから日本の生活はいいなって言っていました。

だからそういう、家族がバラバラになるっていうこともありますね。

毎日ごちそうを食べられる幸福

それから食事もそうですね。

食事というのは、これは昨日もちょっとテレビでお話をしたんですけど、そこにお金持ちが2人いたんですよ。

1人はこの頃高い寿司もまずい、まずいというかおいしさを感じない、感激しないというふうに言っている。

もう1人は、俺はけっこうバラエティがあるから、という話をしていたんで、僕が、実は味覚というのはときどきまずいものを食べると復活するんですよ。

フェヒナーの法則というのがありまして、というふうに説明して、えーって言ってみんなそうかと言ってましたけど、お金持ちになるといろいろ不満がたまるわけですね。

家族がバラバラになる、それからおいしいものがなくなる、それからいい車に乗りますと、前の車が軽自動車だったりすると、遅いと言って文句言ったりするわけですね。

そういうふうに不満がたまっていくんです。

だからだいたいそれが、600万円くらいで4人の生活がいいと言われております。

ところが、私はこの意見に少し違うんですね。

世界で最も幸福といわれる国とは

テレビで公的に言う時には根拠が必要ですから、この数字、600万円で4人くらいがいいという話ですよということが多いんですけども、実は、世界で1番幸福だという統計になっているのがベトナムなんですよ。

確かにベトナムに行きますと、オートバイに家族4人乗って、旦那が運転して奥さんが背中でかじりついてて、子供がどこかにぶら下がっているというような感じで、本当に私が言ってその人たちに話しかけると、ニコニコしてすごい幸せそうなんですね。

統計的にもベトナムが1番幸せなんですよ。

そのとき日本のだいたい10分の1くらいの所得ですから、年収60万という感じですね。

生活が楽ですから、直しても日本で100万から200万くらいという感じなんですね。

じゃあその人が何で1番幸せかと言うと、今度は国が発展していく実感なんですよ。

それは僕がそのベトナム人に、何でそんなにニコニコしているんですかと聞いたら、ベトナムの人が、いやいや今日より明日がよくなるから、と言うんですよね。

それでまた社会も全然違いまして、学校を卒業すると、都心の工場なんかに勤めるんですよ、若いうちに。

その人たちの夢は何かと言ったら、30を過ぎたら農村に帰るというのが夢なんですね。

満員電車と狭いアパートのサラリーマンの幸福

日本と全然違うんですよ。

夢と希望が与える幸福

日本ですと東京に出て、東京で狭いアパートで満員電車という感じですけど、彼らは夢があるんですね。

国の発展という夢と、自分の発展という夢があるんですね。

その夢というのはどういう夢かと言うと、18か16から、32くらいまで、15、6年間は工場で勤めたり町の商店で勤めたりしまして、その後自分の故郷に帰るんですよ。

実際に農村に行ってみますと、農村のベトナムの家というのは、日本よりあるいは裕福なんじゃないかと思うような家がけっこうあるんですね。

きちんと造ってありまして、そこで農業をやる。

農業がまた報われるんですね。

そうしますと、確かに明日への希望が常にありますよね。

学校に行っている時代があり、16くらいで就職をし、都会で若いうち張り切って働いて遊びながら生活をし、32歳くらいである程度小金を貯めて、自分の郷里の農村に帰り、農村でそこから壮年期を過ごし、やがて老年になる。

国も少しずつ少しずつ毎年発展していくと。

素晴らしいですね。

それがいいと、だから所得が日本の10分の1でも日本より幸福だということになります。

幸福の要素というのはいっぱいありますから、今日はここでちょっとお話ししたのは、所得と幸福、明日への希望と幸福というのを整理してみました。

 
 
 

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