日本に勝てないイギリス東洋艦隊!日本と北の湖が嫌われる共通点!武田邦彦

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日本と北の湖が嫌われる共通点!

反日の原因の1つは、日本があまりに世界で突出しているということで、何でも強すぎるのは嫌われますよね。

昔北の海という横綱がいて、ものすごく強かったんですね。

理事長をやってお亡くなりになりましたけれども、素晴らしい横綱で、とにかく出てくるものをバーンとみんなやっつけちゃう。

そうするとだんだん、だんだん、北の海がみんな嫌いになったということがありましたね。

それと同じように、反日の1つの根源は、日本があまりにすばらしい、そしてあまりに謙虚であるということにあるわけですが、

モンゴル帝国と互角に戦った日本

前々回に、日本がモンゴルに勝った、これは一般的には神風と言われますが、元寇に勝ったのは神風じゃなくて、やはり日本軍が互角に戦って、蒙古軍を陸上にあげなかった、橋頭堡を作らせなかったっていうのが大きいわけですね。

イギリス人を叩き切った生麦事件

それ以降ずっと、そんなに大きな外国が攻めてくるということはなかったわけですが、江戸末になって、まず長州に四国艦隊が来て、次に生麦事件というのが起こったわけです。

島津藩の大名行列を、イギリスからきてたのが、こともあろうに馬に乗って横切ろうとしたと。

もちろん、大名行列を馬に乗ったまま横切ろうとしたら、それは切られちゃうわけですね。

そして死んだと。

膨大な賠償金を、イギリスは求めたわけですね。

その背景は、大英帝国の東洋艦隊を出すぞと言って、脅したわけですね。

東洋艦隊で日本を脅したイギリス

ここの図にありますように、1840年くらいに、中国でアヘン戦争というのがあったわけですね。

これはアヘンという麻薬を無理やりイギリスがインドから中国に持ってきて売って、膨大な利益を得ると。

中国人はアヘンを吸ってどんどんダメになるという、そういうひどい戦争だったんですが、イギリスの東洋艦隊にコテンパンにやられますね。

清は、その当時の大清帝国は、イギリスの東洋艦隊にコテンパンにやられます。

とにかく勝負にならない、その東洋艦隊を日本にまわすぞと言って脅して、幕府からは相当な賠償金を取った。

薩英戦争が起こった経緯

そして今度は薩摩藩、そこで薩摩の藩主の島津の首を出せ、賠償金を払えと。

実はこれはそうではなくて、英語の誤訳だったんですけど、別に島津久光の首を出せと言ったんじゃないんですけど、翻訳の時にそう訳されちゃったということで、そういうことになった。

それで、島津は拒否する。

それで、イギリスの東洋艦隊が薩摩藩に入っていくわけですよ。

イギリス艦隊に一歩も引かない薩摩藩

日本とイギリスの戦争じゃなくて、日本の薩摩という、日本の中の1藩との戦いだったわけですね。

このうわさが広まって、砲台を整備し、軍勢を配備し、町も随分ずいぶん緊張してイギリス艦隊を迎えるわけです。

そこにイギリス艦隊が悠々と、この当時もう木造の船じゃなくて鉄の船でしたから、そして銃はアームストロングタイプの回転する方だったんですね。

弾も丸い弾じゃなくて、先端がとがっているような、そういう弾ですね。

射程が全然違うわけですから、海戦っていうのは、射程がものすごく大きいわけですね。

例えば1万メートル離れていて、片っぽが1万メートル届いて片っぽが5000メートルしか届かないと、海戦にならないんですね。

船とか砲台の間が1万メートルを切ったら、1万メートルの射程の方は全部当たるし、5000メートルの方がいくら撃ったって、途中でポチョン、ポチョンと落ちるだけですからどうにもならないわけですね。

そういう状態だった。

ところが、やっぱり日本は強いんですよ。

それから雨風が吹くということもあって、それからイギリス人も油断してて、そしてけっこう鹿児島市内は砲撃されて火災が起こり、大変な目に合うわけですが、砲台の方はじっと待って、射程内に来るのを待って、一斉に砲台を開きます。

とにかくかなりの長い激戦ではあって、その中では戦争ですから紆余曲折あったんですが、薩摩の砲台から撃った弾が、機関の司令塔あたりに落ちて、司令官始めみんな重要人物が死んじゃうんですね。

尻尾を巻いて逃げ帰った世界を制覇したイギリス海軍

そういうこともあって、東洋艦隊は鹿児島に上陸することもなく、交渉することもなく、言えば逃げ帰ったわけですね。

世界を制覇したイギリス海軍。

イギリス海軍が世界を制覇したと言っても、ものすごい昔はもちろんイギリスも弱かったから、勝ったり負けていたりした時代があるんですね。

サクソン海軍とかチューダー海軍とかがあるんですが、1300年あたりは、勝ったり負けたりしたところもあるんですが、その後16世紀くらいに、非常に強くなって、

特にスペインとの間の、スペインの無敵艦隊と言われたものを、アルマダの海戦で全滅させた後は、ほとんど世界は、イギリス海軍の支配下に置かれるわけですね。

したがって、ロイヤルネイビーと言って、皇帝の下に就く海軍ということで、大変なプライドがあったわけですね。

その後は、1回アメリカの独立戦争中にフランスと戦った、チェサピーク湾の海戦というのがあるんですが、そこで1回だけ負けたんですけれども、小さな負け方をしたんですが、

その後ナポレオンとの戦争の、有名なトラファルガーの海戦で、ネルソン率いるイギリスが圧倒的に勝つということで、もちろんこれでフランスとの関係もそうですし、全然強くなっちゃったわけですね。

その後は19世紀に入ると、帆船から、どんどん蒸気船に変わっていきます。

それでもう圧倒的な強さを誇っていまして、まさかそういう船が、日本の薩摩なんかに来て負けると思っていなかったわけですよ。

戦争で日本に勝てないイギリス

イギリス東洋艦隊っていうのは、鉄の船ができてから、本当に敗北を喫したというのは、薩摩が最初だと言ってもいいんですね。

のちにこのイギリス海軍は、もう1個敗れるんですよ。

太平洋戦争が始まった途端に、第二次世界大戦で日本が、マレー海戦でプリンスオブウェールズとレパルスを失うということをするわけですから、イギリスはちょっと辛いですよね。

日本には必ず負けるんです。

日本の海軍には必ず負ける、他の海軍には勝つという、そういうことになってしまったわけですね。

それは大変にイギリスとしても残念なことであって、だけどこの時の日本、つまり大清帝国、その当時の中国と、日本と比べると、世界的にはもちろん日本は小さい国ですし、中国はでっかい国ですから、

いくら眠れる獅子と言われても、その力は侮れないと思われていたのが、簡単にアヘン戦争で負けた。

そう思ってイギリスも薩摩藩に入ってきたら、逆に大英艦隊がやられるという恥を受けたわけですね。

しかしこの日本のすばらしさはその後もありまして、その後体制を整えて、軍艦はもう来なかったんですが、交渉に来ました、イギリスが。

戦後処理に。

反日を生んでしまう1つの原因

イギリスとしては当然負けたわけですから、それほど強い要求はできないと思って来たら、島津藩はあっさりと、いやいや賠償金払いますよ、全額払うと、そういう懐の広さがあったわけですから。

日本は長州の四国戦争における高杉晋作だとか、それからこの薩英戦争の薩摩側みたいに、交渉能力も十分にあって、腹が据わってましたから、結局賠償金を全部払うのと引き換えに、イギリスの大砲とか応談とか戦術の方法とかを全部頂いたわけですよ。

そうしますと、今度は島津藩と徳川幕府との間の力の差は圧倒的に薩摩が強いということで、結局明治維新というのが行われて、そしてその後薩摩の人が、ほとんど首相になったり閣僚になったりして、ものすごく栄えるわけですね。

日本というのは、やっぱり昔の日本というのは素晴らしかったというふうに私は思うし、それが反日の1つの原因になっているということですね。

 
 
 

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