日本の歴史★真実の明治維新!西郷どんは学べない西郷隆盛の真実!渡部昇一

真実の明治維新

明治維新というのは、世界史という枠組みからいいますと、大雑把にいってコロンブス以来350年くらいになりますかね、最大の事件の一つだと思います。

あるいは、もう少し遡って400年くらい遡ってもよろしいのですが、それはあのトルコの海軍が、レパント沖で西ヨーロッパの海軍に敗れて以来、400年くらい以来の大事件だと思うわけです。

と申しますのも、その頃から、ヨーロッパの急に強くなった国々、分かりやすく白人と言っておきますが、この人たちが、有色人種の所に押し入ってですね、程度の低い所は皆殺し、少し使い物になりそうな所は奴隷、もう少し上の所は、不平等条約、あるいは植民地、という事をやり続けて、ざっと350年というところでありました。

ダーウィンを悪用した人種差別

そして、明治維新の頃ですね、その頃にはもう、ダーウィンの進化論が自然科学として認められておりました。

ダーウィン自身は、種の起源を求めたのでありますけれども、それを応用する人がいっぱいいました。

それは、その、非常に低級な動物がどんどん高くなっていくと。

まぁ、簡単にいいますとそれが進化論ですね。

そして、人類にまで至りますとですね、色によって人類の段階をつけるという事がありましてね、濃いほど悪いんですな。

黒人でしょ、その次が赤い人、これがインディアンですね。

その上に黄色いのがいて、その上に白人がいると、そういう事なんですね。

この順序だと言うんですね。

あらゆる面でそれが言われました。

あの、言語学でもですね、大体当時、分からない言語がいっぱいあったはずなのに、西洋の言語学では、言語の発達の3段階などと言う事がよく言われましてですね、

一番分かりやすいの例で言うと、ポッポッポッポというのでシナ語、それから日本語みたいなのが付いたのがその次、そして、語尾変化をやってやるのが、一番上と。

まぁ、自分たち白人の言葉ですね。

そんな事を言っておったわけです。

白色人種と有色人種の結婚は犯罪

ですから、初期の頃、アメリカに移民した最初の頃は、シナ人、その次に日本人が行ったわけですが、こっちから行ったのはね。

当時の言語学の本にもですね、有色人種と白人種が結婚するのは、犯罪であると言うんですよ。

その理由は、進化に逆行するからだと。

そういう事がね、まぁ言われていた時代なんです。

そして、その頃の日本が、鎖国を開いた頃にですね、それはまぁ、ダーウィンの進化論が出てから約10年後ですが、10年も経っていませんね、数年後ですが…

白色人種に対する無力感

その頃になりますとね、ナポレオン戦争が終わってから、もう50年以上経っているわけです。

ナポレオン戦争自体が、ご存知のようにですね、あれだけの大砲を使い、あれだけの軍艦で大砲を撃ちまくった戦争です。

それから、50年、どの国も必死になって軍備競争をやっているわけですよ。

もう、有色人種の国なんか問題じゃないんですね。

喧嘩も何も出来ないという感じでありました。

はじめのうちは抵抗する国もありましたけれども、それはもう、抵抗したんですけどね、至る所で、ですが、コテンパンにやられたわけです。

アメリカ大陸のインディアンだって、はじめは強力な敵対者でありましたけれども、もうそのうち、徹底的にやられて、おとなしくなっちゃってね。

「インディアンは嘘つかない」なんて言っていますけれども、かつてのインディアンなんてものではなくて、非常にひわいな言葉で言えば、きんぬきされたような顔になっちゃったんですね。

インドももちろん抵抗しましたが、これもコテンパンにやられて、イギリスには絶対に手を出しちゃいけないという感じになりました。

ビルマ、インドネシア、みな同じ。

中国が白人に遠慮する理由

中国でもですね、当時、清国でありますが、これも香港を取られるとかですね、その前にアヘン戦争とか、南京事件とか色々あったんですが、いずれもコテンパンにやられて、白人には絶対に手を出すな、という風にだんだんなっていくわけですよ。

今でも、チャイニーズは白人たちに対しては、非常に、なんといいますか、遠慮してますね。

まぁ、その期間が長かったわけです。

白人の前提を崩した日本人

ところが、明治維新の時の日本というのが出たもんでですね、それまでの白人積み上げてきた、積み上げてきたというか固めて来た前提が崩れたんです。

その前提とは、どういう事かというと「自然科学が出来るか」という事ですね。

それから、「それを使った近代産業が出来るか」という事。

これが出来るのは、青い目をして生まれなければ出来ないと、こういう、誰が言ったわけでも無いけれども、それが浸透しておりました。

全ての白人の信念になっていたんですね。

で、もっと恐ろしい事にはですね、この白人にしてやられる方の有色人種も、そう思い始めていたわけです。

もう、どうにもならんと。

それでまぁ、清国は金があったもんですから、軍艦を買ったり致しました。

しかし、まぁ白人に対してはダメ。

最後にしたのが、1900年の英語でいう所のBoxer Rebellion、北清事変ですけども、あれが最後の足掻きで、あれで木っ端微塵にまたやられたわけです。

日本に鉄砲が普及していた理由

ところは、日本の方はどうだったかと言いますとですね、これはちょっと明治維新を遡って考えないと分からないんですけれども、徳川幕府が始まった頃の、鉄砲の状況を一つ、考えてみようと。

日本は、他の有色人種とは、基本的に違っておったのです。

それは、鉄砲というのがずっと広がっておりました。

それで日本には種子島に鉄砲が何丁か来たわけですが、それがあっという間に九州から、紀州、それから近江なんかに移って、もう鉄砲の改良型の大量生産が、行われていたわけです。

それで、まぁ有名な鉄砲を使った戦争では、織田信長の長篠の戦いですか、武田の軍勢を破ったと、あの時も、柵を作って、突っ込まれないようにして、その陰から交代で休まず撃つという方法ですが、こんなのがヨーロッパの現れるのは、それから70~80年も遅れております。

日本の方が、鉄砲の使い方でも、もう先進国になっているんですね。

鉄砲の性質も、当時はむしろ良くなっている。

そして、最後の徳川幕府を作る最後の戦いになりました、大阪城での戦い辺りは、敵味方合わせて、鉄砲の数がはっきりは分からないですけど、数千丁から多い時は一万丁近かったと言われています。

一つの戦場にですね、一万丁の鉄砲を、あの時代に集められる国はないんです。

どこの戦場にもないんです。

ヨーロッパ中、どこにもないんです。

だから、鉄砲だけでもですね、日本はまぁ、当時の最先進国になっておったのです。

世界が驚いた日本の伝統

この、外国から入ったものを、すぐに吸収してですね、より高いものを作るという能力は、仏教伝来以来、日本の伝統となっているわけですけど。

それが、徳川時代はですね、島原の乱というのがあって、キリシタン、バテレンというのがありましたんで、それを抑えるためもあって、自然科学的なもの、それから、近代工業的なものを抑えたんですね。

徳川幕府がひっくり返っちゃ困ると、こういう事なんですね。

徳川幕府と言うのは、国家と言うよりは「徳川家」という事を第一に考える所から出発した政権でありました。

例えばですね、徳川家の蔵書ですね、これはあくまでも徳川家の蔵書であって、国家の蔵書ではない。

書物でもですね、なんでもみな、徳川家、なんですよ。

関心が、徳川家、なんですね。

まぁ、それで自然科学や、もちろん鉄砲の研究もですね、抑えると。

キリシタン、バテレンという形で抑えたわけです。

当時の日本の数学は世界トップレベル

ですから、抑えなかった方は進むんですよ。

数学なんかは無害ですからね、いくら数学が進んだって、徳川幕府がひっくり返る事はありませんから、これは抑えません。

そうしますと、丁度ライプニッツやニュートンと同じ頃、関孝和という人が出来まして、この方が方程式を解くことを考えます。

弟子になりますと、これが微分のところまで行くわけです。

大体もう、全く向こうと関係なく、ニュートン、ライプニッツのレベルまで行くんですよ。

向こうの方はですね、ニュートンもライプニッツも刺激しあってあそこまで伸びているわけです。

日本は、全く孤立でですね、そこまで行っているわけです。

数学だけは、誰も止めませんのでね。

ですから、明治維新になりました時に、明治政府はとにかく自然科学を習わなければならんという事で、外国人講師をいっぱい入れたわけです。

数学だけはですね、困っちゃったんですね。

数学だと、日本に来るくらいの先生だと、日本の学生より出来ない。

だから、菊池大麓みたいな一番できる人をケンブリッジに送りました。

そしたら、向こうですぐに一番優等生になって帰って来るんですよ。

もう、記号さえ変えれば、その程度まで行っていましたからね、いとも簡単だったようです。

数学がそこまで行っているという事は、何をやらしたって出来るという事でもありました。

これが一つです。

だからあの、江戸時代は非常に水準が高かった。

ただ、抑えられていたのが自然科学であり、近代工業であり、これがやりたくてしょうがなかったわけです。

ペリー来航

ところがそういうところにですね、ペリーが来たわけです、安政か嘉永6年ですか。

ペリーの船が来ました。

よく教科書でありますね。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」

上喜撰というのはお茶の名前ですね、なんていうのが出ましたけれども。

徳川幕府が抵抗しなかった理由

あの時ですね、日本と他の国とで違ったところは、徳川幕府は抵抗しなかった事なんです。

これは、プラスとマイナスが、はっきり大きく出るんですね。

プラスだったのはですね、徳川幕府はなんといっても、武力政権ですから、「武」というものに対する感覚があるんですよ。

戦争して勝てないものとは戦わないというセンスがありました。

ですから、実に粘っこい交渉、今からみれば歯がゆいような交渉をやりまして、戦争は避けました。

韓国は武の国ではない

これは、お隣の韓国と比べれば非常にはっきりするんでね。

韓国では、今の仁川(インチョン)ですか、じんせんですね、さいもっぽと昔、言っていましたが。

あそこは、非常に海の干満の差が、大きいらしいんですね。

そこに、アメリカの船が入った時にですね、攻撃して追っ払ったりですね、それから、フランス人の宣教師を殺して、フランスの軍艦がやってきたら、それをやっつけたりですね、勝どきを上げているわけですよ。

勝どきを上げた理由は、船が動けなくなったところに、みんなが押し寄せたというだけの話なのですが。

白人なにするものぞ、となっているわけです。

というのも、韓国は武の国ではありませんでしたね。

リャンバンといって両班とありますけれども、本当は、文班と武班と両班があるんですけれども、文班だけが両班になっちゃって、武班は実際上無くなっているわけです。

武のセンスが無いんですよ。

本当の武士としてのセンスがね。

だから、もう大丈夫と。

ところが、江戸幕府の方は、あるんですよ。

これは勝てないと。

それで、色んな議論がありましたけれども大方針としては、とにかく軍艦も作って、対抗できるまで時間稼ぎをしようというわけで、一生懸命にやるわけです。

だから、幕府の小栗上野介なんかが作った軍艦制度というのが横須賀の元なんですね。

一生懸命やるわけです。

ところがですが、その時に一つはこういう情報もありましたね。

ジョン万次郎の数奇な運命

ジョン万次郎という人がいるんですよ。

これは、土佐の浪士で、難破しましてね、太平洋を彷徨って、アメリカの捕鯨船に助けられた。

みんな助けられたんですけど、このジョン万次郎という青年は、進取の気性がありましてですね、みんなとただ助けられてボヤってしていないでですね、アメリカ人の船員に交じって、一生懸命仕事をしたり、言葉を覚えたりしたわけですね。

それで可愛がられて、結局船長に連れられて、今のニューイングランドに連れていかれるんですよ。

そこで向こうの商船の学校でしょうね、その学校に入りましてね、なんでも、最優等になったらしいです。

そして船長の娘さんかね、とにかくちゃんとした立派な娘さんと結婚をしました。

だから、キリシタンの昔はいざしらず、近現代となってから、白人と結婚した日本人第一号がジョン万次郎なんですね。

このジョン万次郎という人は非常に優秀な人で、たちまち言葉もマスターして、アカデミーといっていましたから、相当高級な学校ですよ。

大学ではないんですけどね。

そこを出まして、太平洋で鯨取りをする。

そこで、船長が死んだとき、代わりといって、船員に推されて船長にまでなっているんですよ。

だから、本当に向こうの事が分かっている人だった。

日本に戻ったジョン万次郎の働き

でも、最終的には日本に帰りたくてしょうがない。

土佐にまだお母さんが生きているはずだという事でですね。

それでも、いきなり帰ったら鎖国で何をやられるか分からないという事で、最初沖縄に上陸するんです。

沖縄というのは薩摩領ですから、薩摩に捕まって、というか捕まえて貰ってですね、薩摩の島津公の所に連れて行って貰う。

島津斉彬は聡明な人でしたから、話を聞いたらですね、知識の正確さが、今まで聞いた人とは桁違いなわけですジョン万次郎は。

そこで幕府に報告し、幕府に行くんですよ。

英語は出来るし、なんでも出来る。

あまりに出来過ぎてですね、「スパイだ」「近づけるな」などと、水戸の殿様なんかは言ってですね、結局表には出なかった、万次郎は。

しかし、情報だけは正確に幕府の一番上の方に伝わっていたようです。

「アメリカは日本を取る気はありません」

と。

実際、ジョン万次郎は当時のアメリカの大統領にも会った事があるんですよ。

それで、カリフォルニアの金山も見ているんですね。

で、

「今のアメリカはアメリカの国内の事で手一杯で、他の国を取ろうという気は一切ありません」

と。

だから、そういうつもりで、幕府の方は交渉すると。

だけど、そういう事は、みんなにはバラしませんのでね。

他の人には分からない。

幕府の最高機密としてやっているわけです。

そして、ペルリ、ペルリといっていましたけれども、

「ペルリではなくあれはペリーなんだ」

と。

そういう、つまらない発音まで直したりね。

だから、向こうの交渉をしている時は、彼は必ず後ろにいて、それを聞いて後でやったに違いない。

表の通訳の話が色々出ますが、あれだけ正確な外交が、日本の当時の幕府に出来るわけが無いんですね。

非常に緻密な交渉をやっているわけですよ。

尊王攘夷の空気

ところがですね、これが武にたった国ですから、武士の国ですから、日本の武力と向こうの武力を考えて、今は戦えないとすぐに判断して、技術導入に切り替えていたわけです。

ところが、武の政権であったとい弱みはですね、武で立っているのに、誰から見ても外国から脅されてペコペコしているわけです。

そうすると、

「けしからん」

と言う声が、沸いてきたわけですね。

沸いてきた時にですね、一つ間違ったのが、当時の老中、阿部伊勢守ですかね。

非常に優れた人ですけどね、なだめるためもあったかですね、開国方針を朝廷に尋ねるという、そういう決断をしたんですよ。

これが、幕府の側から見たら大変な間違いだったんですよ。

鎖国したのはね、徳川家ですから。

「鎖国止めました」

と徳川家が言ってもよかったわけですよ。

そこをね、なんか朝廷に伺わなきゃならないような、当時の雰囲気になっていたという所が重要ですね。

井伊直弼 安政の大獄 桜田門外の変

そうしますとね、武士たちは、

「なんだこの腰抜け幕府め」

という事になりましてね。

しかも、井伊大老がたった十数人の浪士かなんかに切り殺されます。

大老というのはですね、いつもいるわけではありませんね。

老中というのはいつもいますけれども、大老というのは時々いるわけです。

特に重要な役職です。

その大老がですね、たった十数人のですね、痩せ浪人か浪人かに殺される。

しかも、お城の前でね。

これでね、武としての権威が無くなるんですよ。

象徴的にね、大老の首が飛んだっつうんでね、無くなるんです。

これがね、普通の民政権だったらですね、暗殺されても気の毒だ、だけで済むんですけどね、大老というのは大将ですからね、武士の。

これが首取られたんじゃね、武としての権威が無くなる。

このシンボル的なものが無くなるというのは大きいんですね。

ですから、幕府が首が飛んでからですね、わずか7年で、明治天皇は江戸城に入っておられるわけです。

あっという間にですね。

ですからあの、首一つといっちゃいけませんけどね、象徴的な首と言うのは、取られると大きいです。

まぁ、そんな事も色々あってですね、幕府は非常に弱くなるんですね、思想的に。

ところが、長州藩とか薩摩藩はですね、逆に攘夷に走るわけです。

生麦事件

それで生麦事件というのがありまして、これはその薩摩の殿様の前をですね、交流を許されていたイギリス人の男女数人が横切って、切られて1人は死に、あとは怪我したりした事件です。

それに対して、また莫大な償金を取られるわけです、幕府は。

薩摩からも取ると言ったのですが、薩摩は来るなら来いというわけでね。

薩英戦争

まぁ、薩英戦争になるんですね。

この時おもしろいのはですね、薩摩の方は、割とうまくいったんですよ、大砲でね。

旗艦の船長が死んだりですね、敵の旗艦が、錨を切って逃げるという事がありました。

それは日本人はピンとこなかったですけど、西洋では、錨を切って逃げるという事は最大の恥だったんですね。

そんな事は知らなかったものですから、後で和解した時に、「錨を返してくれ」と言われて、はいはいと、簡単に返したそうですけども。

本当は、返しちゃいけないですね。

この時に、薩摩の人たちが身に染みたのはですね、

「大砲の射程距離が違えば戦争にならない」

という事なんですね。

はじめは知らないでね来た時は、バンと撃ってやっつけたけれども、射程距離からすぐに離れるわけですよ、イギリスの船は。

そうしたら、もうどうしようもない。

いくら撃ったって、海に落ちるだけです。

ですが、向こうの弾は、薩摩の町に、鹿児島にボカボカボカボカ入っちゃって、みな焼き払われちゃったわけですよ。

ですから、当時の薩摩の武士たちは、武器が悪ければ戦争にならんという事が、腹の底まで染みわたっていたんですね。

下関戦争

それから、大して時間が違わない下関ではですね、これまた長州がやるわけですね。

これがまた、コテンパンにやられます。

射程距離の違う鉄砲を持った人と撃ち合っても勝ち目がないという事がよく分かりましてですね。

ですから彼らは、武器を買う事に熱心になりますね。

長州も薩摩に頼んで買う。

薩摩もイギリスと手打ちをして武器を買う。

その武器を長州にも売れるように斡旋する、とかまぁそういう事が起こるわけです。

江戸幕府の弱体化

方やですね、江戸幕府の方は、攘夷したくないんですよ。

それでも当時の雰囲気、当時の孝明天皇の意思もあって、鎖国するなんて約束をしちゃったもんだから、京都の色々なゴタゴタが起こるわけです。

それで、長州征伐をやりましたけれども、一回目は半分成功して終わりました。

二回目になると、もう全然ダメで。

というのは、当時はもう、幕府が言っても、大部分が動かなくなっているんですね。

じゃあ、旗本はというと、旗本が弱くなっているんです。

まぁ、強い旗本もいたんですが、幕府が出来た頃の旗本八万騎なんて事はなくてですね、非常に文弱になっているんですね。

ですから、こういう話がありますね。

明治維新になってからですね、薩長その他、田舎の武士が、政府の高官、偉い人になりますね。

そして、当時の事ですから新橋辺りで芸者をあげて遊ぶ。

その芸者とかに、旗本の娘とかがいっぱいなっちゃうわけです。

旗本の娘の一人が書いたのを、読んだことがあるんですけどね、そしたらこんな風に書いてるんです。

「自分の父や兄たちが、今自分の所に遊びに来ているあの行儀作法も知らない田舎侍みたいに勇敢だったら、私もこんな目にはあわなかったのに…」

といった事を言っております。

だから、男は強くなきゃいかんですな。

東京地区から部落が無くなった理由

ですからあの、被差別部落と言うのは、江戸にも非常に大きくあったわけです。

花川の幡随院長兵衛とかあの辺のあたり、四谷あたりだってですね、大部落があったわけです。

だから、一説によると四谷と言う名前は、そこから来ているんだという、今の公明党のあたり、創価学会のあたりがそうだというのを聞いた事があります。

それで、その長州征伐を考えた小栗上野介なんかは、仕える旗本が足りないわけですから、部落の人たちに、

「兵隊になれば全部良民にかえす」

という事を言ったんですね。

すると、それまで非常に差別されていましたからね、戦争に一度出れば普通になれるってんで、大威張りでみんな入っちゃったから、実際、東京地区からは部落は無くなりました。

それをやらなかった関西とかね、関東地方にも田舎の方には残っているわけですが。

東京地区自体には、全く無くなりました。

これは、薩長征伐の副産物と言ってもいいです。

問題はですね、鎖国を始める時は、徳川幕府は「鎖国するよ」と言ってもだれも反対しないですよ。

ところが、開国する時には、なんとくなく徳川幕府が「開国するよ」とは言えなくなっているんですよ。

だから、朝廷にお伺いを立てましょうと言ったら、「ダメだ」と言われて、維新の志士たちが、わっと怒るわけですね。

太平記が維新の志士に与えた影響

それはどういう事かというと、徳川時代の間に歴史が流行ったんですよ。

一つはね、講談という形で太平記。

太平記というのは楠木正成とか新田義貞とか足利尊氏とか出てくるわけです。

太平記読みが、ウェイトをかけたのは楠木正成とかね、南朝方にウェイトをかけて講壇をやっているわけですよ。

とういのはやはり、庶民から見ますとね、徳川幕府は誰も批判する事は考えられないんですが、足利幕府を攻撃する楠木正成は、いくらしても構わないわけですからね、これは。

新田義貞が英雄になるんですよ、江戸時代にこれが。

太平記の大筋が、大体日本人の常識になるんですね。

それからあともう一つ、平家物語の方は平家琵琶の方で常識になるんですけれども、講談の方は太平記です。

ですので太平記読みと言ったんですね、最初の方は、講談の事はね。

講談者も尾ひれつけてやりますからね、派手に。

そうすると、幕府と戦う勢力と言うのが英雄に見えるんですよ。

だから、幕末の志士っていうのは、全部、もの凄く、楠木正成や新田義貞を崇拝しているでしょう。

あれは、最後まで幕府と戦った人だから。

足利幕府の代わりに江戸幕府をおけばね、

「俺は、今の楠木正成になるんだ」

という人がいっぱい出たと思います。

これが一つですね。

水戸黄門が与えた影響

それから、もっと深刻な形に出たのはですね、水戸光圀が大日本史を作り始める。

これは、あの、非常に重要な歴史なんですけれども、もの凄く膨大なものです。

完成したのが、明治に入ってからですからね。

これは、戦前、講談社の野間清治が全部復刊しましてですね、これはもう膨大なもんです。

全部漢文ですね。

ですから、みんなが読むようなものでは無かったのですが、読めるものでも手に入るものでも無かったのですが、水戸の人などごく少数の見る機会があった人たちは、日本というのはこういう国だったのかと、幕府の上に皇室があるという事くらいは知っていたわけです。

だから、水戸が徳川家であったにも関わらず、もの凄くあそこから倒幕運動が出てくるのはですね、大日本史の本場だから、なんだかんだ、その知識が流れ出ているんですね。

これが大きかったと思いますね。

日本人に歴史を教えた頼山陽

それから、広い意味で日本人に歴史を教えたのは頼山陽です。

歴史は、今でもお隣の国から歴史の認識が足りないなって事を言われたりしていますがね、歴史の教育と言うのは、元来、どこの国にも無かったんですよ。

日本だって、読み書きそろばんの中に、歴史は入っていないんです。

歴史っていうのは、義務教育に入ったのはもちろん明治になってからです。

ヨーロッパでもですね、国の歴史教育と言うのはずーっと無かった、だから、日本と同じころに始まったと言ってよろしいです。

というのも、昔はですね、国の歴史と言うのが固まっていないんですよ。

例えば、ハプスブルク家っていうのがありますね。

お姫様をどっかの王様にお嫁にやる。

じゃあ、ベルギーを半分つけてやるか、とそんな感じでしょ。

だから、国境がね、国民国家にならないんですよ。

全部王朝でね、あっちにくれたり、こっちにくれたりしているわけです。

だから、中世のイギリスなんか酷いですよ。

イギリスの王様がフランスに持って行った領地が、フランス領よりも多いくらい、嫁に行った人が持ってきたりしてね。

だから、国境と言うのが非常にあいまいでね、王室しかないんですよ、観念として。

ところが、ナポレオン戦争以降、国民国家と言う観念が出来たんですね。

あれは、フランス革命の副産物ですね。

国家と言う観念の誕生

ウィーン会議が出てから初めて国境を定めるという観念がはっきりしてきたわけです。

国境を定めますと、国と言う観念が出来ますね。

その国という観念が出来ますと、その国への忠誠を尽くしてもらわなければ困ると、国民に教える必要があるわけです。

それまでは、べつに国に忠誠なんか尽くす必要が無いんで、殿様につくというわけです。

国に尽くすようになったのは、ナポレオン戦争以後で、新しいんですね。

しかも、それが学校に入るのは、それはもう、うんと新しい。

イギリスのような国でも最初にイギリス史が出来たのは、デイヴィッド・ヒュームという人が6巻のものを書いたのですが、これはフランス革命の少し前ですよ。

しかもそれは、学校で読むようなものではなくて、豊かなジェントルマンが、自分のライブラリに置いて、まぁ見せびらかしたりするようなもんででしてね。

だから、歴史というものは、通史として見るという習慣は、無かったんです。

どこの国にも割と無かった。

割とあったのは、シナでね、これは王朝が変わるわけですから、新しく出来た王朝は、必ず前の王朝の事を書くんで、まぁ、ずっと伝わってるわけです。

だから、途中で蒙古人の国が出来でもそこを書くわけですね。

たから、続いているような感じになるわけで、まぁ、だからシナには二十四史とか各王朝の歴史があります。

ですが、インドとか他の国はには無いんですよ。

日本も無かった。

頼山陽の日本外史

水戸光圀が一番まとめたわけですが、それをもっと分かりやすく書いたのが頼山陽です。

日本外史というのを書いたんですね。

頼山陽という人は、本当の天才でね、もの凄い、創作力が沸くようになるわけです。

お父さん頼春水は謹厳実直でですね、元来は町人のうちなんですけれども、学問が出来て、広島藩の藩儒ですね。

藩の一番偉い人になっている。

詩文の才能もあった頼山陽は日本の歴史に興味を持ちます。

頼山陽が生きている間に出版した最初の作品は、日本楽府という66の首を日本の歴史から選んで作った詩集です。

しかし、出版はされていないけれども評判になってみんなが写していたのが、日本外史というのがありました。

日本外史というのは、平家と源氏の勃興から始まります。

武家政治から始まるわけです。

講談を読むように面白いですね。

朝廷と幕府の明確な関係

しかし、その評判を聞いてですね、当時の老中、松平定信がですね、俺にも読ましてくれというので、奉るんですね。

序文があるんですよ。

序文でもですね、書いていって、徳川家が出てくると、行を変えて一字上げるんです。

朝廷が出てくると、また行を変えて、2字上げるんです。

もう、朝廷と幕府の違いをちゃんと示すんですよ。

それをまた、松平定信が咎めない。

そして、日本外史を読んでみますとですね、そりゃあもう、講談よりも面白いようなもんですよ。

しかし、頼山陽の中には、非常にはっきりとした態度があるんです。

それは、徳川家康の事を書くでしょ、徳川家康が三河の守の時は、三河守はと書いてくるんです。

中将になると、中将殿はと書いてくる。

将軍になると将軍はと書いてくる。

全部位が変わる度に変えて書くんです。

位はどこから来たかというと、朝廷から来ているんですよ。

分かるように出来ているんですよ。

武士にとって幕府は絶対

だから、いわゆる相対化といいましょうかね。

それまではね、徳川時代の人にとっては、幕府は絶対のものなんですよ。

絶対、だって、支配階級は武士でしょ。

武士の一番頭は大名ですよ。

武士というのは、大名に忠義を尽くすもの、文句を言わずに殿様の為に死ぬもの、これが武士の倫理です。

その大名を、勝手に使用人みたいに動かせるのが幕府なんです。

こんなものをひっくり返そうなんて発想は、そもそも普通の人には無いんですよ。

ところが、頼山陽みたいな、彼は家を継ぐのが嫌でね、家を継ぐと固い事ばっかりしかやっていられないという事でね、逃げ出す。

長男ですから大変です。

それで、キチガイになったという事で許されるんですけどね。

それで、京都に住んで、日本人としては最初の文筆生活を始めた人の一人ではないかと思うんですけどね。

彼は、そこをちゃんと見てですね、朝廷というものがあるんだという意識で書いているわけです。

どんな人が出てきても、位が上がっていくと、位で書いていくんですよ。

一番上にいるのは天皇

一番上に天皇がいるという事は、誰が読んでも分かる、これを咎めようがない、全部本当の話ですからね。

で、悪口は一切書かない、咎められますからね。

徳川家の悪口なんかは一切書かない。

それでも、少将だったり、中納言だったり、大納言だったり上がっていくんですね。

大納言といったら、誰が見たって宮廷の位ですからね。

これが、超ベストセラーになるんですよ、幕末になると。

頼山陽が死んでから、川越藩が印刷したのが一番普及したと言われていますが、色んなところで印刷されましてですね、これが超ベストセラーになります。

ところが、もう一つですね、頼山陽は書いています。

これは、日本外史よりも四分一くらいの量だと思いますが、日本政記というのを書いたんです。

こちらは、コンパクトにですね、神武天皇から書いてある。

そんなものはですね、日本人は今まで見た事もなく、9割9分9厘の人間は知らない話なんですよ。

これはね、維新の志士となった人たちに、もの凄いモラルサポートとなったわけです。

「我々は、こっちの方に続いているんだ」

「徳川幕府なんかは、この辺から出てきたんじゃないか」

と。

そして、日本政記なんかをよく読んでみますとね、皇室と幕府の関係もよく分かるんですね。

幕府と公家の関係も。

「姓」に隠された秘密

例えばですね、「姓」というのがありますね。

この姓というのは何かという事なんですけどね、これは天皇が主だった家臣に与えるものが姓なんですね。

ですから、藤原氏だとか立花氏だとか源氏だとか平家だとか、みんなこれは姓なんですよ。

ところが、日本では姓がある人は、絶対に天皇になれないんですね。

ですから、藤原道長がですね、自分の娘を次から次への天皇の后にして、三代の天皇のおじいさんという空前絶後の事をやるわけですよ。

「こんなの、自分が天皇になったら簡単じゃないか」

と外人は思う。

しかし、日本人にはその発想は無い。

藤原道長自身はですね、

「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば」

なんて和歌は作ったけれども、自分は天皇になれない。

自分は藤原だから、天皇から名字を貰っているから絶対になれないのです。

それがなんか分かるんですよ、読んでいくと。

徳川幕府は、みんな源氏と言っているんです。

自分は源氏だと言っているんです。

織田信長は平家だと言っているんです。

その前の、鎌倉幕府から室町幕府は、また源氏なんですね。

源氏というのは、ちゃんと姓、かばねを貰っているわけですからね。

くれた人の方が偉い。これがよーく分かるようになっている。

伊藤博文が日本の歴史を学んだ日本政記

また、日本政記というのは非常にコンパクトなんです。

だから、伊藤博文なんかがですね、幕末に長州藩からお金を貰ってですね、密出国してイギリスに行くわけです。

その時に、日本の歴史を持っていこうと思った時に、日本外史だとかさばるからですね、日本政記を持って行ったと書いてあります。

だから、ロンドンに着いてから、密出国者としてですね、伊藤博文が日本の歴史とはなんぞやと、歴史知識を得たのは、この日本政記なんですよね。

井上馨もそうですね。

それが示すようにですね、維新の志士はみんな懐に日本政記くらいは持っていて、それが彼らの自信なんですね。

幕府よりも、我々は立場が強いんだというね、そういう意識が無ければ、ああいう事は出来ませんね。

だから、歴史知識というのは、非常に重要なんです。

歴史と歴史的事実は違う

我々が、普通、歴史教育とかいう場合の歴史はですね、歴史的事実とは違うんだという事を、非常にはっきり言った人があります。

これは、オーエン・バーフィールドというイギリス人で、本来、言語学者みたいな人ですけど、歴史の事も書いていて、こう言っているんですね。

「歴史的事実なんていうものは、雨上がりの空みたいなもんで、無数の水滴がいっぱい空中に満ちている」

歴史的事実は無数にあるわけです。

「ところがある角度から、ある方面からみると、綺麗な虹が見える」

と、この虹が、いわゆる歴史なんだと。

だからある国民がみると、こう見える。

そして、その国民の共通認識になったものが、それが歴史なんでね、歴史的事実とは違うもんだという事を言っている、実に明々白々の話で、分かりやすいですね。

だから、歴史的事実は、毎日毎日、無数に起こっていますからね。

どれが歴史かという事になると、これが共通認識としてみんなが見れるような虹、という事になります。

維新の志士が見た虹

その虹を、最初に分かりやすい形で見してくれたのが、頼山陽なんですね。

維新の志士たちは、この虹を見たわけです。

その虹は、今度は幕府の親藩と呼ばれた譜代の大名のうちにも、どんどんどんどん入って行くんですよ、虹が。

そうすると、その虹を見るとですね、とてもじゃないけど朝廷とは戦争をしたくないな、しにくいなという気持ちが、見た人には出てくる。

徳川慶喜 大政奉還

十五代将軍、徳川慶喜という人は、特に水戸藩の出身ですから、その虹は、その自分の先祖の光圀がもっと壮大な形で書いていますからね。

そういうところに行くとですね、戦争したくはなかったと思いますね。

そんな時にですね、こういう事がありました。

あんまりうるせえ事を言うからね、維新の志士とか藩が、あいつらに国をやらしてみたらどうかという案をですね、まぁ、彼は受け入れるんです。

そして、大政奉還というのをやるわけです。

「政治をじゃあ、やってくださいよ」

と。

その時は、やれるはずがないという気もあったと思うんですね。

結局やるとすれば、自分が中心となって、有力な藩が集まってやるであろうと。

それに公家が来れば、加わってもいいだろうと。

まぁ、これぐらいの考えだったと思います。

ところがですね、ここに岩倉具視という人がいたんですよ。

岩倉具視の知られざる働き

この岩倉具視という人はですね、僕が子供頃から、偉い人間として描かれているんですよ。

何が偉いか、ずーっと分からなかった。

維新の三傑なんて言われるとですね、西郷隆盛ですとかですね、大久保利通だとか、木戸孝允…

ですが、四傑というと、必ず岩倉具視が入るんですね。

これは、何なんだろうと思っていました。

これは、分かりにくいんです。公家ですから。

ところがですね、大政奉還したっていうんでね、今度、宮廷で会議を開くという事になりました。

その時に、仕切ったのが岩倉具視なんですよ。

その時は、当時まだ15~16歳だった明治天皇が、最初に出席なさった会議が慶応3年の12月に行われるんですね。

これを、小御所会議と言っています。

日本初の御前会議

小御所会議が、日本の御前会議の第一号と言われています。

御前会議と言うのはですね、天皇が出られる会議を御前会議と言うのですが、天皇は何も仰るわけではないんですよ。

昭和になるとしょっちゅう御前会議がありましたよ。

御前会議で戦争が決まったとかね。

天皇は発言なさらない。

あまり重要な会議をね、政府で決めますと文句が出るもんですから、一番重要な会議は、天皇に出て頂く。

そうすると、御前会議だっつうとね、天皇は何にも、座っているだけで、でも箔が付いちゃって他のやつが文句を言えなくなるという効果がありました。

御前会議で天皇が発言なさったのは、終戦の時だけです。

終戦の時は、鈴木貫太郎内閣が投げ出したもんでね、それなら言おうという事で、御前会議で天皇の意見がはっきり出て、終戦となったわけです。

他の時はみんな、招かれて出て、座っていらっしゃるだけです。

ただ開戦の時だけは、明治天皇が和歌をお詠みになったというだことですが、これは発言というわけでも無いんですね。

小御所会議でももちろん、幼い少年、明治天皇は発言なさるわけではありません。

その時ですね、重要なる大名と重要なる公家を岩倉具視が中心になって集めたんですね。

徳川慶喜の排除

その中にですね、岩倉は、徳川慶喜を入れなかった。

入れないで、大政奉還されたから、今後やっていこうと。

奉還したやつを呼ぶ必要はない、という意味だったと思うんですね。

そうしたらですね、土佐の山内公が「けしからん」と。

なんといっても、徳川家は800万石の大大名で、今までやって来た。

「この人を除くという事は、天皇が幼少である事をいい事にした野心では無いか」

という趣旨の事を言ったんですよ。

確かに、ある意味では、土佐の山内公が言った事は正しい。

ですが、そこにうまく引っかかったんです。

岩倉具視がやるんですね。

「天皇が若いからそれをいい事に勝手な陰謀みたいな意見出しをするとは何事であるか。ここにいらっしゃる天皇は英明な方である。無礼であろう。」

なんて言ったらね、天皇がいらっしゃるものですから、やっぱりね若いのをいいことにしてなんて言ったらね、バカみたいでしょ。

そうするとね、恐れ入っちゃったんですよ。

あとはねぇ、まぁ岩倉の独り舞台ですよ。

それでも、まぁ反論もあったんですね。

途中で休みましょうとか言って、私語もあるんですね、公家の間に。

その時も、岩倉が叱り飛ばすんです。

その時、もう一人いたのが大久保利通ですね。

彼は、薩摩藩の代理として出ていたわけです。

山内公が言われるように、

「徳川慶喜前将軍に、恭順の意がある、本当にかしこまりましたというのであれば、800万石全部出しなさいと、そうすれば恭順の意があると認めましょう」

と言ったわけです。

大政奉還と言ってね、土地は持ち続けるって、それは通用しないよ、なんて言ったら、そうだそうだ、っていうような事でね。

そのうち、ガヤガヤしているうちにですね、こういう噂を流す。

この時、会議の場所を守っているのが薩摩兵ですね。

西郷隆盛がいるわけですよ。

そのあたりから話が来てですね、グズグズ言うならね、殺してしまえと。

そういう噂を流すわけですよ、会議の時にね。

そうするとね、集まっているのは大部分が、公家と大名ですからね、殺されてはたまらん、と思ったのかもしれませんね。

それで、徳川慶喜を除いて、小御所会議が終わるわけです。

そして、慶喜は、恭順の意があるのなら土地を全部出しなさい、となっちゃったんですよ。

徳富蘇峰の近世日本国民史

で、これはその徳富蘇峰がですね、近世日本国民史というのを書くんですね。

徳富蘇峰という人はですね、明治に生まれ、明治の元勲たちを本当によく知っている、明治に酔いしれたような人なんですね。

だから、死ぬまでに明治史を書きたいと思ったんですよ。

明治史を書こうと思ったらね、どうしても、幕末を書かないといけないんですよ。

幕末を書こうとすると、その前を書かないといけないね。

その前を書こうと思うと、鎖国を書かないといけない。

そうすると、秀吉を書かないといけない、信長まで書かないといけない、となってしまうわけですね。

結局ですね、信長から始まってですね、50巻書いたんですよ、戦前ね。

それからまた、明治に入ってからね、40何巻書くんですよ。

それでもう、あんまり詳しく書きすぎてですね、日清戦争まで行かなかったんです。

ですが、もう本当に詳しく丁寧に書いてます。

徳富蘇峰という人はですね、昔の人でしかも大変な学者ですからね、古文書でもスラスラ読めるんですね。

今の古文書は、歴史学者もなかなか読めなくてですね、往生しているわけですけれども、流れる事の如く読むわけですよ。

漢詩なんかもですね、我々が俳句を作るように、作れる人ですからね。

しかも、政府でも、殿様、旧大名家でもみんなに非常に評判がいい、人気のある人でしたから、どこのうちに行っても見してもらえるわけですね。

それを全部書いたもんですからね、もう明治に入ってから、40何巻書いても、まだ日清戦争に行かないんですよ。

というような事で、最後になって公職追放みたいになって、最後のまとめみたいなのを一巻書いて、亡くなりましたけどね。

徳川家を葬った小御所会議

この徳富蘇峰という人がですね、小御所会議でこう言っているんです。

「徳川家を作った元がですね、関ヶ原の戦いであるとすれば、徳川家を葬った関ヶ原みたいなものは、小御所会議である」

と書いてありますね。

ここで、徳川慶喜は、大政奉還した明治政府から、追っ払われたわけです。

それで慶喜の方は、大阪に行く。

それで、倒幕せよという風に、一気に動いてくるんですね。

あの辺のね、政治の動きというのはね、怖いんです。

ですからやはり、明治維新の4大偉人と言った時は、岩倉具視を入れないといけないですね。

大久保も入れないといけないですし、あとはもちろん、西郷隆盛を入れなきゃいけない。

そうすると、どうしても長州からも一人となると、木戸孝允という事で、この4人になるわけですな。

だから、岩倉の偉い所は、その時の一気に小御所会議を支配したその、なんていうか会議力、会議の時の力ですね。

それに、セカンドとしていたというか、明暗をつけてサポートしたのが大久保利通、取り巻いておったのは西郷隆盛というような事でですね。

そして、どうもグズグズいうやつがいたら、刺し殺してしまえって言ったのは、西郷らしいんですけどね。

て事を言ったかどうかは分かりませんけどね、会議にはそう伝わっちゃたわけです。

休憩時間に。

そうすると、みんな怖くなったという事もあった思うんですよ。

しかし、なんといっても立役者は岩倉具視です。

鳥羽伏見の戦い

そしてね、あのすぐに、幕府軍と官軍といいましょうか、官軍になりました長州と薩摩の連合軍とが、戦争をやるわけです。

鳥羽伏見の戦いが始まるんですね。

この時、幕府の方がざっと10倍くらいの人数がいるんですよね。

その時ね、幕府の方は、簡単に負けた理由、負けた理由を探すのは一つ非常に大きいのはね、そのさっき申し上げました、太平記なんですよ。

敵も味方もね、江戸時代の人は太平記の話をしているわけですね、講談で。

それで、これもまぁ、岩倉の知恵だと言われるんですけどね、京都の反物屋からですね、一番ピカピカする反物を取り出して、

「錦の御旗だ」

といってですね。

錦の御旗なんて、誰も見た事が無いわけですよ。

太平記に出てくるだけの話でね。

それだって、本当かどうかも分からないですよ。

「錦の御旗だ」

っつってね。

そうするとね、錦の御旗が出たっていうだけで、みんな太平記の知識があるからね、がっくりくるわけですよ、もう徳川勢は。

それでもまぁ、殿様への忠義と言う精神もありますし、戦うわけですが…

続きはこちら⇒【渡部昇一の日本の歴史】真実の日清戦争!教科書で学べない日本の歴史!

参考図書:渡部昇一「日本の歴史」  
 
 

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