目次
- 1 明治維新後の朝鮮の態度
- 2 日本と清国の平等条約
- 3 朝鮮が日本を舐めた理由
- 4 西郷隆盛の征韓論
- 5 世界の現実を知った岩倉使節団
- 6 口ほどにもない朝鮮の実力
- 7 本当に恐ろしい国はロシア
- 8 朝鮮の近代化を求めた理由
- 9 朝鮮近代派の政府
- 10 ロシアに尻尾をふる韓国政府
- 11 日清戦争が始まった理由
- 12 詔勅の重要性
- 13 朝鮮は独立国である
- 14 日清戦争前の日本の緊張感
- 15 日清戦争に勝利できた理由
- 16 日本を脅かしに来る中国の軍艦
- 17 強い日本軍と弱い清国軍
- 18 陸でも海でも日本の大勝利
- 19 清国の降伏
- 20 戦争の天才 立見尚文
- 21 日清戦争 講和条約の悲劇
- 22 日清戦争 講和条約で取得した権利
- 23 三国干渉 清国に今すぐ返せ!
- 24 国民をなだめる遼東半島還附ノ詔勅
- 25 日本人の覚悟
- 26 結婚を我慢した日露戦争の勇士
- 27 八甲田山 死の行軍
- 28 朝鮮の独立
- 29 朝鮮半島初の皇帝
- 30 大韓民国はいつ建国なのか?
- 31 日本が持った朝鮮に対する発言力
- 32 乙未事変
- 33 福沢諭吉の脱亜論
- 34 日本に放棄させた遼東半島をロシアが取る
- 35 白人にボロボロにされるシナ
- 36 裏目に出た夷を以て夷を制す
- 37 日本に迫り来るロシア
- 38 北清事変
- 39 日本軍の強さを知った英国司令官
明治維新後の朝鮮の態度
日本は、明治維新が行われますと、すぐに対馬の宗氏を通じて、当時は朝鮮と言っておったわけですが、朝鮮に日本ではこういう事があったという事を報告して、そして、改めて関係を結びたいという外交文書を送ったわけです。
それまで、朝鮮と徳川幕府の関係は、宗氏が、対馬に宗という大名がいたのですが、宗氏を通じて行っておって、日本からは行かないけれど、向こうからは通信使というかたちで、まぁ、挨拶に、将軍が変わったりすると来ていたわけです。
その、徳川幕府が無くなって、今度は新しい政府が出来ましたと、そういう挨拶で、新たに国交関係を結びたいという手紙を出したところが、拒否されたわけです。
その、拒否された理由と言うのがですね、日本では明治維新になりましてね、という文章の中にですね、天皇の皇ですね、天皇ですとか、大日本帝国ですとか、詔勅だとかそういう言葉を使った文章だったわけです。
そうしたら、朝鮮政府はですね、こんな漢字はね、「日本が使うのはけしからん」と言うわけです。
朝鮮にしてみますとですね、こういう漢字を使う資格があるのは、朝鮮の宗主国である当時の清国、まぁシナですね、シナだけであると。
こんな無礼な言葉を使う国とは付き合えないとか言って、国使を突っ返しちゃったんです。
まぁ、突っ返されたわけですけどね、日本の方も、まぁその辺は理由が分かりましたもんで、今度はそういうような言葉を使わないような事で交渉したんですけどね、全然言う事を聞かないんですね。
日本と清国の平等条約
聞かないうちにですね、日本は清国と交渉をはじめました。
だから、朝鮮は聞かないんだけれども、朝鮮の親分でありますね、清国と交渉をしました。
これは、スムーズに行きましてですね、明治4年に条約が出来ました。
この場合は、両国は全く平等という立場で、国交を結んでおります。
で、お互いにどっちが有利という事もなくね、全く平等の条件で、スムーズにやっています。
親分がですね、国交を日本とやる事になったのにですね、その属国の朝鮮は、なんだかんだとごねましてですね、話が進まないのです。
朝鮮が日本を舐めた理由
この背景には、こういう事があったと思うんですね。
その前にですね、アメリカのシャーマン号という軍艦が、今の仁川ですね、今のインチョンですか、仁川の港の所に行ったら、浅瀬に乗り上げちゃったんです。
あそこは、非常に干満の差が大きい所なんだそうですね、満潮と干潮の差が。
それを知らないで行きますと、船が動かなくなっちゃったわけです。
それで、やっていまえってわけでですね、焼き討ちしちゃってですね、乗組員をみな殺したという事件がありました。
それから間もなくしまして今度ね、フランス人の宣教師9人ばかりかな、殺したんですよ。
それでフランスが、抗議に船で行ったら、やっぱり浅瀬に乗り上げちゃってですね、結局追い返されてしまったんです。
そういう事でですね、えらく自信を持ったらしいですな、朝鮮は。
「俺たちは、黒船でもなんでも追い返せるんだ」
と
「日本みたいにだらしなくねえぞ」
と、いう事だったんでしょう。
てなことで、国使を突っ返し続けたわけです。
西郷隆盛の征韓論
当時の日本人と言うのは、皆、武士ですから、非常に腹を立てる人が多くてですね、「あんなのやっちまえ」というような話になったんですね。
まぁいわゆるこれが、征韓論です。
ところが、まぁの、西郷隆盛という人はですね、「それはやっぱりよくない」と。
まずは、「わしが行く」と、武装も何もしないで自分が行くと、そして説得しようと。
きっと、連中は訳が分からなくてですね、私を殺すだろう、と。
殺したら、兵隊を出せ、とまぁこういう事だったんですね。
だから、あの、西郷隆盛の征韓論というのはですね、大変人道的であってね、さあ攻めろ、というんじゃないんですよ。
俺が丸腰で行って殺される、と。
まぁ、殺されないで成功すると万歳だけどね。
恐らく殺されるだろう、と。
そうしたら兵隊を出してくれ、と、これなら十分な理由になると、こういう事でした。
世界の現実を知った岩倉使節団
それでも、当時、世界をまわって帰ってきました岩倉使節団の人たちですね、大久保利通だとか木戸孝允だとか伊藤博文だとかは、先進国のあまりにも凄い発達ぶりを見たもんで、とにかく今は外国なんかとやっている場合ではないと。
今はとにかく日本は、富国強兵、国を富まして、兵隊を強くするよりしょうがない、それをやらないと植民地になってしまうと。
世界の情勢がよくわかったんですね。
で、西郷隆盛は、自分の意見が入れられないので、九州に引っ込んでしまうと、薩摩に引っ込んでしまうという事があって、西南戦争と言う悲劇があったわけです。
口ほどにもない朝鮮の実力
ところがですね、変な事でですね、パッと朝鮮と国交が開きました。
それは、江華島事件というんですが、やはり仁川のあたりなんですね。
日本は予め、日本の旗を送っておきまして、こういう旗をつけた船が来たら日本の船だらから、その時は、水だとか食料だとか、そういうのは売ってくれと、まぁこういう事で、言ってあったわけです。
それで、日本の船が行きましたらですね、やはり、向こうがいきなり撃って来たわけです。
こちらも軍艦だったものですからね、撃ち返してですね、コテンパンにやっちまったんです。
そうしましたらですね、驚いちゃってね、あっという間に、日本との外交交渉が開けましてですね、条約が結ばれたんですよ。
だから、あの国は、ゴツンとやらないと分からないのかなと、いうような感じでもあります。
本当におかしいんですよ、その親分がちゃんと国交を結んでいるのに、ごねてたわけですからね。
まぁ、日本が舐められておったといえば舐められておったし、向こうはたまたま、アメリカの小さな軍艦を焼き払ってみな殺しにした事、フランスの船が攻撃に来たけれどね、それが浅瀬に乗り上げて追い返されたこと、それで自分たちは非常に強いと思ったのかもしれません。
いずれにせよ、日本のわずかな小さい軍艦一つで、向こうはあっさり降参しちゃったわけです。
というのが、そもそもの始まりであります。
本当に恐ろしい国はロシア
それで日本の方はですね、とにかく一番怖いのはですね、日本は国を開いて、世界中の状況がよくわかりました。
怖いのは、ロシアだけ、という事がよくわかったんです。
世界中をまわってきましたね、岩倉使節団も。
色んな情報も、どんどん入ってきますね。
そうしますと、イギリスもアメリカも最初は黒船でね、フランスも同じように見ていたんだけれども、この国は日本に対して領土的野心は無いと、これがよく分かったんですよ。
要するに、貿易とかなんかをやりたいだけであって、国を取ろうとか島を占領しようとかそういう気はない、危険性が無いと、こう見たわけです。
ところが、ロシアだけはある、という判断に達したわけです。
事実ロシアは、着々と侵略を続けている。
そして、その目的の先はですね、冬も凍らない港、不凍港というんですね、これにある。
当時、ウラジオストックはもう取っていましたけれども、ウラジオストックという名前はご存知のように、ウラジオーストックっていうんですね。
「東方、東を取れ」という町の名前なんですよ。
だから、更に東っていったら日本列島ですね。
それから朝鮮半島、それを取れという目的の港でした。
ところが、ウラジオストックは、冬、凍るんですね。
だから、冬季は船が動けない。
それで、何が何でも冬も凍らない港が欲しい、となると朝鮮半島、遼東半島その辺ですね。
その辺に出てくる事は、ひしひしと分かっておったわけです。
朝鮮の近代化を求めた理由
ですから、日本だけが近代化したってね、朝鮮がロシアに取られてしまえば、もの凄く危険ですから、朝鮮の近代化を求めたわけです。
そのためには援助を惜しまないという事をやったんですけれどもね、それがまぁ、そう思っている向こうの人もいました。
しかし、ひっくり返るんですね。しょっちゅうひっくり返るんです。
うまくいきそうになったらですね、また今度は反対革命が起こっちゃう、革命というほど大袈裟じゃないけれども、宮廷の勢力が変わって、日本の大使館が襲われて、30人くらいが殺されるといった事もありました。
まぁ、その時は日本も交渉しましてですね、賠償金も当時の金で50万円とかね、とかなんとか色々あるんですけれども1~2回取りまして、あとは取れませんでした。
そして、他の物を寄付しました。
だから日本は、賠償金は取ったけどですね、むしろ持ち出しにして解決してるんです。
その時にですね、ゴタゴタが起こる度に、清国が兵隊を送ってくるわけです。
日本ともそういう事が色々あったりしてですね、結局、お互いに兵隊を入れる時は、了解を得て入れる事にいようよと、清国と日本が話し合ったわけです。
朝鮮近代派の政府
そうするうちに、朝鮮にも独立派といいましょうか、近代派が勢力を占めましてですね、そして一時、政府を作ったんです。
朴泳孝(ぼくえいこう)とか金玉均(きんぎょくきん)とかは日本を見てですね、早く近代化しなければならんと、ボヤボヤしている時ではないという事で、それらが勢力を得て、一時、内閣を作ったんです。
ところが、すぐに反対派が宮廷に出るんですね。
この反対派がすぐに清国の援助を求める、それで清国は袁世凱(えんせいがい)という将軍をよこして、この政府は仕事をやりはじめまして、近代化を進めたんですがね、一挙にぶっ潰されましてね、そして、主だった人は日本に逃げてくると、こういう事がありました。
そんな事を繰り返しているうちにですね、日本もこれは放っておけないという事になったわけです。
ロシアに尻尾をふる韓国政府
しかも今度は、韓国政府は明らかに、ロシアに尻尾を振りましてですね、ロシアの方に有利な条件を与えたりしてる。
それで、清国の方は兵隊を送って来る。
日本との約束は、兵隊を入れる時はお互いの了承を得る事だったのにそれも無視された、というわけで、日清戦争に向かっていくわけです。
日清戦争が始まった理由
日清戦争になった時のですね、宣戦の詔勅というのがあるんですよ。
明治27年8月1日
清国に対する宣戦の詔勅
とにかく、清国を追っ払わなければどうにもならんと。
天佑ヲ保全シ萬世一系ノ皇祚ヲ… とまぁ続くのですが、長いもんですよ。
非常に重要なのはまぁこういう事なんですね。
朕ここに清国に対して戦いを宣す。
朕が百僚有司はよろしく朕が意を体し、陸上に海面に、清国に対して戦いに従い、以って国家の目的を達するに努力すべし。
いやしくも、国際法に戻らざる限り、各々権能に応じて、一切の手段を尽すにおいて必ず遺漏(いろう)なからんことを期せよ。
国際法に戻らない限りは、何をやってもいいよという宣戦の、まぁ兵隊さんたちに対する詔(みことのり)ですね。
このね、国際法に戻らざる限りというのがね、日清戦争の時も日露戦争の時も付くんですよ。
ですが、この前のね、大東亜戦争の時はね、付かないんですよ。
あれは、まずかったね、と思います。
一応書いておけばね、良かったんですよ。
書いてないとね、国際法を守る気が無かったみたいな、わざわざ断っていると非常にいいんです。
詔勅の重要性
というのは、日本みたいな立憲君主の国ではですね、詔勅というのが最終的な公文書なんですね。
公文書中の公文書なんですよ。
だから、ここに書かれてあるのは、まぁ一番重要なんです。
だからまぁ、日清戦争の時は、「国際法を守れ」と言ってます。
それから、重要なのはですね、なぜ戦争をしなければならないかという事を書いてあるんですけれども、
朝鮮は独立国である
朝鮮は、帝国が其の始め、啓誘して、列国の伍伴につかしめたる独立の一国たり。
日本が初めて朝鮮をね、誘ってですね、日本の影響力によって他の国とも外交交渉するようになったわけです。
始めは日本に断っていたんですけれども、日本と交渉すると、続いて他の国とも国交を開くようになりました。
だから、初めに日本が誘って、そして、他の国と交際するようになった、独立の一国である、独立国であると、こういう風に書いてあるんです。
しかるに、清国はつねに、朝鮮をもって属邦と称し…つまり、いつも朝鮮は属国だと言って、
陰に陽にその内政に干渉し、その内乱あるにおいては…つまり、そこにゴタゴタが起こると
口を属邦のじょうなんにしき…つまり、属国だからと口実を設けて、
兵を朝鮮に出したり。
これは、明治15年の条約によりよくない話であるから、言っても聞かないから戦争になります、と書いてあります。
だからこの、宣戦布告で非常に重要な事は、日本の軍隊に対しては、国際法に戻らなきゃいけないとはっきり言っている事、それから清国に対しては、朝鮮は独立国であると。
それなのにお前は、朝鮮は属国であると言って、いう事を聞かない。
そして、なんだかんだと言っては兵隊を出し、そして朝鮮の中に騒乱があると、まぁしょっちゅう騒乱があるんですが、ある度に、それを口実にして軍隊を出してくると。
それで、いくら「朝鮮は独立国なんだから、そういう事をやるな」と言っても聞かない。
それで戦争をすると、そういう事を言っているわけです。
これは、今見ても立派なもんだと思いますね。
日清戦争前の日本の緊張感
日本はもちろん、秀吉以来ですね、外国と戦争したことはありませんし、徳川時代は国の中でも戦争した事が無い。
幕末には、まぁ薩英戦争と長州藩が4ヵ国と戦争してコテンパンにやられた経験がありますが、いわゆる戦争は無い、日本国としては。
もの凄い、やっぱり、緊張だったみたいですね。
この宣戦布告が出るやですね、それはその、当時は武士がいっぱいいましたからね、わんさかわんさか志願兵があって、さばくのに困ったという記録もあります。
それでも、武士だからと言って近代戦に使えるわけではないんで、みんな断っていたわけですが。
日清戦争に勝利できた理由
それで戦争が始まったところがまず、意外に日本が強くて、向こうが弱かった。
その理由の一つが、清国は、これが不思議なんですね、当時までのシナ人はですね、他の国からものを学ぶという気は無いんですね。
こういう話がありますね。
清国の皇帝の中には時計の好きな人がいてですね、当時西洋から色んな時計を買ってね、時計の間なんていってね、色んな時計をじゃらんじゃらん鳴らして喜んでいたと、ところが時計を買うだけなんですよ、金はありますからね。
ところが日本はですね、西洋から時計が入ったらすぐに分解して、いろいろ工夫しましてですね、和時計という世界に冠する時計を作っちゃうんですね。
清国の方はですね、軍艦は買うんです。
鉄砲も買うんです。
でも、作る気はないんですね。
日本を脅かしに来る中国の軍艦
だから、軍艦なんかは、日本がまともな軍艦が無いうちに、定遠(ていえん)、鎮遠(ちんえん)なんていうね大型の軍艦を買うわけです。
それで、それに乗って長崎に来てですね、それに乗った水兵が乱暴狼藉をはたらくという事があります。
そして、それからその船は、横須賀に入りまして、日本人も見に行って、みんなびっくりするわけです。
こんな船を清国は持っているのか、とみんな怯えるんですね。
向こうは脅かすつもりで来ているわけです。
で、船が大きいから上陸した水兵たちは乱暴狼藉をやると。
まぁ、今の中国とちょっと似てるんですけどね、無礼な事ばっかりやっているわけです。
強い日本軍と弱い清国軍
ところがね、戦争を始めますとね、日本はね、鉄砲は村田銃に統一しているんです。
その、日本は武士の集団だったんですから、明治政府はね、武器に対しては非常に敏感ですよ。
大山巌大将だって、弥助砲という大砲を発明したくらいですから。
総司令官が大砲の改良者だったくらいの、非常に武器に対しては敏感でした。
村田銃というのは三八式の元になった、当時としては世界で最優秀の鉄砲になっていました。
それで武器は統一しているんですね。
ところが、清国はあっちから買い、こっちから買いですね、5種類くらいの鉄砲を撃っているわけですよ。
これはいけませんね。
それで、まあ、日本軍が突進すれば、日本軍の士官は一人残らず武士出身です。
兵隊は真面目にバーッとついていく。
当時かから、歩兵の吶喊(とっかん)という言葉が非常に流行りました。
僕らが子供の頃も、しょっちゅう兵隊ごっこをやったんですけどね、最後になったらとっかーんっていうんですよ。
とっかーんて言ったら、負けも恐れず突っ込むという事なんですね。
脇目む振らず突っ込むというような軍隊では向こうは無かったもんで、あっさり勝っちゃうんですな、日本は。
それから海軍の方もですね、向こうは軍艦は大きいんです。
日本の方が小さいんだけれども、日本の方が遥に速力が速い。
それを巧みに使いまして、散々に打ち負かすわけですね。
これはあの、昔、黄海海戦の歌というのがありました。
煙も見えず雲も無く、風も起こらず波立たず、鏡のごとき黄海は曇りそめたり時の間に…とかいうような歌ですね。
勇敢なる水兵という歌でした。
それで、まぁ撃ち合っている時にですね、我々が小学校の時に習った話なのですが、撃ち合っている時に弾が当たって、倒れている水兵さんがいたんですね。
そしてその脇にいた将校に水兵がですね、
「定遠はまだ沈まずや」
と聞いたんですね。
「いや、もう沈みかけている」
と言ったらですね、そうですかと言って安心して死んだという話というのもありました。
日本人としては、清国は日本人を脅すために派遣した定遠、鎮遠という軍艦はですね、普通の人でも名前を知っているくらい怖い話だったわけです。
陸でも海でも日本の大勝利
それも日本の高速船隊ですね、しかも戦いのやり方も、日本は工夫しましてね、船の大きさは日本はずっと小さいんですが、船足が速いのと、たくさん撃てるっていうんでね、それが見事に成功しましてね、海軍も勝ちまくって、向こうは威海衛(いかいえい)に籠ってしまったという事なんですね。
陸上でも、ずっと勝ちました。
冬になりました時には、日本はそんな寒い時に戦う経験は無かったんですけれども、昭和になっても歌われました雪の進軍なんて歌があるんですね。
雪の進軍、氷を踏んで、どこが河やら道さえ知れず、馬は倒れる捨てても置けず、ここはいずこぞ皆敵の国…
というような歌がありました。
清国の降伏
それでいよいよ、ずーっと勝っていますからね、当時北京が都ですね、あの辺を直隷省(ちょくれいしょう)と言っていました、当時ね、直隷省で決戦をやって、占領をするかといった時にまぁ、降参して、和議が成立したわけです。
例えば、威海衛の場合はですね、敵の北洋艦隊の司令長官は、降伏を拒否して自殺しているんですね。
その死骸を送る時に、戎克(ジャンク)の乗せていこうとしたらですね、日本の伊東祐亨(いとうゆうこう)提督がですね、向こうはいくら敗軍の将とはいえ、敵の艦隊の司令長官である、と。
軍艦に乗って帰ってもよろしいと言ってね、本当は日本がだ捕してもいい軍艦を一隻出してね、それに自殺した敵の司令官を乗せて、送り届けさせた、なんていった美談もあります。
当時はまだ、大変、騎士的な戦いでしたね。
それから、原田なんとかという兵隊がですね、平壌の門に飛び上がって、下に飛び降りて門を開いたとか、そういった武勇談もありました。
なんか、武器が幼稚だったせいか、そういった美談もたくさんある戦いでした。
非常に面白いと思ったのはですね、日本軍の方が鉄砲馴れしておったという事だと思いますね。
戦争の天才 立見尚文
例えば、立見という人がいるんですね。
この立見尚文という人は、桑名藩士なんですね、幕末の頃の。
桑名藩士で桑名雷神隊といのを作ってですね、これは幕府方ですから、散々、天皇軍を悩ますんですよ。
桑名藩が降参してからは、雷神隊を引き連れて新潟に行きまして、長岡藩で戦いまくってですね、山県有朋の軍隊を散々悩ますんですよ。
そしていよいよ長岡もダメだという事になると今度は会津に行って、また会津で奮戦して会津がダメだったらまた今度、庄内藩に行って…というような人なんですね。
そのうちに明治維新になりましたので、その人は国に帰って、まぁ下級関連の仕事をしていました。
で、面白いのはですね、西郷隆盛の西南戦争が起こりますとですね、それをちゃんと覚えている人がいてね、
「確か、立見という戦争がべらぼうに上手い男がいたな、あいつを探し出せ」
ていうんで、探し出してきてですね、そして軍隊を預けるんですね。
この立見軍というのがやっぱり戦争がうまくて、最終的に城山で西郷隆盛を殺した、殺したという言い方は悪いんですけれども、殺した所の突入した軍隊は、立見さんの所の軍隊なんですよ。
これは、だから幕府の軍隊なんですよ、生来は。
この立見さんは非常な天才でね、日清戦争でも素晴らしい戦いをするんですね。
あの、敵がいっぱいいる所に進むんだけど大丈夫か、と言うとね、いや大丈夫だと。
「あの距離とこの距離だと、人間はこのくらいの長さで見えるはずだ。この長さに当てるだけの鉄砲の能力は向こうには無いから大丈夫だ」
というような計算でね、進んで、大勝利するんですよ。
というような事で、戦争の名人がいましたね。
向こうの方は、そういうのがいなかったとみえて、軍隊だけは数は多いんだけれども、散々ぱら負けちゃったわけです。
日清戦争 講和条約の悲劇
それで、講和条約と言う事になりました。
この時はね、向こうの総理大臣、李鴻章(りこうしょう)が、今の日本に来てですね交渉をするわけですが、春帆楼(しゅんぱんろう)という料亭と言いますか宿屋と言いますかね、その時に日本の血気はやったやつがですね、警官なんですが、李鴻章を撃ったんですよ、憎い奴だというわけで。
そのためにね、伊藤博文なんかは、酷く迷惑するわけです。
せっかく勝ってね、和平交渉で来たわけでしょ。
絶対に手を出してはいけないですよ、外交に来た人には。
それで、今の下関の春帆楼で会談している時にですね、まぁ、その撃った人はですね、愛国心に満ちたんでしょうけどね、撃っちゃったもんで、後は日本は随分要求したい事を、皆取り下げないとならなかったんです。
世界が見ている所でですね、向こうの代表を鉄砲で撃ったんじゃね、これはもう面目が立ちません。
それはまぁ、幸いに死なないでね、くれたんですけれども、外交官、または外交使節に手を出すと、外交はもの凄く損をするんですね。
とう事でまあ、中国もそれで損するんだと思いますよ。
日本の外交施設をぶっ壊して、まだ謝っていないでしょ、これは世界中で知られるわけですからね。
それから、日本の首相と副首相が会う事にして、格の低い副首相が直前に約束を破って、国ごとで忙しいから帰っちゃったなんてね、これなんかも世界中に広がります。
そうすると、中国はこれはまだ野蛮国という事になります。
これは、徹底的に宣伝しなければならないと思うんですけどね、まぁそれは別として。
日本でも当時はそういう事が分からなくてね、ひたすら敵は憎むべきと、いうような単細胞がいて、まぁそういう事もありました。
日清戦争 講和条約で取得した権利
それでも、日本が取得した権利と言うのは非常に素晴らしかった。
それはまず、第一条項がね「朝鮮の独立を認める事」なんですよ。
それから、まぁ色々あるんですけどね。
そのうちで、「台湾を貰う事」
台湾と澎湖諸島(ほうこしょとう)を貰うんですね。
これは全然、清朝は惜しがりませんでした。
清朝っていのは元来満州族で、騎馬民族ですから、東の海の島なんかは、元来罪人を流す島ですからね、あんなところは化外の地(けがいのち)だからってんで、惜しげもなくくれたんですよ、台湾は。
で、台湾を実効支配したことは無いんですから。
台湾の島が、大陸の政府に実効支配されたことは一度も無いんです。
まぁ、そういう所ですから、日本はまぁ頂きました。
それから重要なのはね、関東州を貰ったんです。
そうすると日本としましてはね、旅順、大連というね、ロシアが凍らない港として欲しがる所は抑えた上にですね、その根元の関東州というのも貰ったわけです。
この関東州というのはですね、意外に大きいんですよ。
満洲全体から見れば大したことは無いんですけどね、日本の感覚からいうとかなり大きいんです。
それで、日本は非常に喜んだのはね、ここがあればロシアが当分出てくることが無くなったという事とですね、人口問題が殆ど解決できるくらいの広さ何ですよ。
だから日本は非常に喜んで、締結したわけです。
それから、2億テールだったか、とかいう賠償金も貰いました。
ところがですね、この交渉が成り立つやいなやですね、即、それは清国に返しなさいという圧力が来たんですよ。
三国干渉 清国に今すぐ返せ!
それが、ロシアとドイツとフランスから、これを三国干渉というんですね。
これには国民が怒りましたですね。
ところが、伊藤博文は当時ですね、珍しく外国に情報網を持っていたんですね。
それで、アメリカの方がったかイギリスの方だったか、ようするにアングロサクソン系の情報からですね、それは返した方がいいという情報を貰う。
というのは、ロシアは既にね、軍艦を用意していると、そしてドイツがそれに参加し、フランスもそれに参加する、共同の艦隊司令長官は、ロシア人にもう決まっていると、提督の名前までわかっていると。
だから日本が拒否すれば、直ちに日本に攻めてくると。
日本軍は、みんな北シナの方に行っているわけです。
本州には、軍隊もなければ海軍も無いわけです。
だから、ボヤボヤしていると本土に上陸されるぞ、という情報を貰うんですね、伊藤博文は。
それでこれは、返すよりしょうがない、と。
で、返す事になります。
国民はそんな事は知りませんからね、カンカンに怒るわけです。
それでね、分かっているのは天皇陛下とか政府の首脳なんですね。
国民をなだめる遼東半島還附ノ詔勅
それで、国民をなだめるためにですね、
明治28年5月10日、遼東半島還附ノ詔勅というのが出るんです。
まぁ、向こうが降参したわけですからね。
清国皇帝に頼まれて、日本の総理大臣と向こうの代表と話させて、そして両国の講和の条約を締結せしめた。
それで、色々貰ったわけですね、台湾とか。
なのにですね、ちゃんと条約を結んだのに、ロシア、ドイツの両帝国及びフランス共和国は、日本帝国が遼東半島を持つ事をね、永久に持つことは、東洋永遠の平和にならないといって、3つの国が、代わる代わる日本政府にそれをしなさいと言ってきたと。
てなことを仰ってですね。
だから、まぁ仕方がないという事を色々と書いてあります。
国の大きな計画を間違えさせないために、まぁ静かにしなさい、というようなね、わざわざ詔(みことのり)が出て、国民もですね、そういうことかと、まぁ納得したわけです。
日本人の覚悟
それで、臥薪嘗胆という言葉が現れるのですが、
「今度はどうしてもロシアと戦争になるな」
というのはですね、みんなに分かるわけですよ。
なぜこれらを返させられたのかも、みんな分かるわけです。
それであの、臥薪嘗胆という言葉がありまして、昔のねシナの歴史で、呉と越の国で、最初に負けた方が恨みを忘れないように薪の上に寝た、それから仇を取られた方が今度は、肝を抱えて毎日舐めて苦い思いをして、復讐したとかいうね、臥薪嘗胆というんですね。
薪の上に寝て、肝を舐めるという、我慢する事をそう言うんですね。
臥薪嘗胆して、
「次はロシアだ」
とみんな思ったんですね。
結婚を我慢した日露戦争の勇士
ですから、日露戦争の勇士たちも、結婚しない人が多かった。
10年後はロシアと戦争をしなければならない、その時未亡人は作りたくないというね。
だから、日露戦争の時の軍神として仰がれました、広瀬武夫海軍中佐ですね。
この人も、その理由で結婚しませんでした。
それから、遼陽会戦で、陸軍の軍神として仰がれた橘周太中佐、彼も結婚しませんでした。
いずれも、死ぬ覚悟だったんですね、10年後には。
それは、大変な、ロシアが来るという事は、ひしひしと感じていたわけです。
八甲田山 死の行軍
それで、いわゆるその八甲田山、死の行軍もそうなんですね。
冬の八甲田山をまわるという訓練をやって、大変沢山の兵隊さんが死んだことがありましたが、あれも敵が青森に上陸する可能性があるという事と、それと戦場はうんと寒い所になるだろうという2つの理由からですね、雪の中の軍事訓練をしなければならないという事で、やったわけです。
そのときに、まぁあの、不用意に出かけたこっちから回った人たちは、全滅くらいに死んだわけです。
そうではない方から回った人は、非常に注意深い大尉で、この人はいわゆる士官学校を出なくて、共同学校から下士官から上がった人ですけど、非常に注意深い人で、全員無事に帰ってきているんですね。
この人なんかも、全部日露戦争がらみの訓練で、この成功した人も、日露戦争では、黒溝台会戦で壮絶な戦死をしています。
いずれも日露戦争がらみの10年間が始まるというわけです。
朝鮮の独立
その間に起こった事で、何が重要かと言いますとですね、朝鮮が独立したことなんですよ。
清国が引き上げたわけでしょ。
それから、前から日本は、「朝鮮は独立させるべきである」「独立国である」と言ったわけだから、独立したのです。
それが面白いですね。
多くの人が指摘する事を忘れている事ですから、ぜひあなたにも覚えておいて欲しい。
それは、朝鮮という国はですね、1392年か、10391年かに、李成桂(りせいけい)という人が、明を建てた朱元璋(しゅげんしょう)皇帝から貰ったわけです。
朱元璋が当時の高麗国をぶっ潰したんですね。
その時に手柄を立てのがこの、李成桂という朝鮮人なんですが、この人が明の皇帝から
「よし、お前よく戦った、朝鮮半島をくれてやろう」
という事で、あの半島を貰って、朝鮮と言う名前まで貰ったんです。
李成桂という人は、高麗を潰す手先になった、朝鮮人の軍人です。
だから、明の皇帝から朝鮮半島を貰った。
朝鮮と言う名前も貰った。
だから、習慣も年号も、全て明と同じになっているわけです。
だから、朝鮮の年号というのは、ずーっと明国と同じなんですね。
それから、試験制度もみな同じになりました。
というような事で来たわけだけれども、日本との戦争でシナが手を引くことになりましたので、独立したわけです。
朝鮮半島初の皇帝
そして初めて、朝鮮をやめて、大韓帝国と名乗るようになりました。
だから、朝鮮半島が始まってからですね、朝鮮半島で皇帝が出来たのはその時が初めてなんです。
日清戦争の後、初めて朝鮮半島の歴史が始まったと言ってもいいくらい、シナ中央の政府が手を引いたもんだから、そこで皇帝という事が出来たわけです。
それまではみんな王ですよ。
百済王だとか新羅王だとか高麗王だとか、王と言うのは、全然偉くないというわけではないんですけど、あんまり偉くないんです。
王から帝になったわけですね、初めて帝になりました。
帝っていうのは、結ぶっていう意味でね、糸へんを付ければ締めるって字でしょ。
足へんをつけると蹄って事で、指を締めるっていう意味ですね。
この帝というのは、王をたくさん締めるから帝なんですよ。
その中の一人に朝鮮がいたりですね、昔は百済王がいたり、まぁ琉球王もいたわけです。
初めて朝鮮は、日清戦争で日本が勝って、シナの勢力を朝鮮半島から追っ払ったから、初めて朝鮮皇帝が出来たんです。
そして、これからが面白い。
大韓民国はいつ建国なのか?
いつ建国したかという事ですね。
大韓民国、建国はですね、李成桂の時からという事になるんです。
だから、1392年か1391年ですね。
日本で言えばですね、足利3代将軍義光の頃ですね。
日本では、太平記に出てきますように、南朝と北朝が戦いましてですね、ずっと楠木正成だとか足利尊氏がありましてですね、ずーっと吉野あたりの南朝と、京都を中心とする北朝が争っておったんですけども、1392年に両朝が一致したわけです。
丁度その時に、李成桂が朝鮮を建てたわけです。
その時をもって、大韓民国建国の年とすると。
だから、大韓民国、大韓帝国は設立が14世紀なんですね。
今、韓国4000年の歴史とか言ってますけど、「嘘言え」ってね。
自分たちがそう言ってるんですから、はっきり。
帝国が出来たのは明治28年か29年ですけど、日清戦争の後ですからね。
しかし、独立してから建国の年としたのは、日本で言えば足利3代将軍義光の頃と、正式の歴史ではそうなっています。
向こうの国の、日本の話じゃないですよ、向こうの正式な歴史ではそういう事になっているんですけれども、この頃は忘れた事になっているようです。
日本が持った朝鮮に対する発言力
まぁ、それで済めば良かったんですよね。
日本は、今度は圧倒的な発言権を朝鮮に持ちます。
だから、「近代化を進めなさい」という事で、「わかりました」という事でですね、近代化を進めたがっていた人もいたわけですから、その内閣も出来るんですね。
ところがまた、内乱みたいなことが起こりましてですね、やられましてですね、主だった人は、また日本に逃げて来なければならなかった。
そして、また韓国の大使館が襲われてですね日本人が殺されたりするんですよ。
そうすると日本は、清国に勝っていますから、軍事的には日本が上ですから、恐れてどうしたかというと、今度は勝手にですね、韓国の皇帝は、ロシア公使館に逃げ込んで、そこが政府になるんです。
ロシアの中に抱かれてしまったわけ、という事になりますね。
それで日本に逃げてきた人たちはまぁ、近代化をしなければならんと、あんな事をやっていたら困るんだ、と言ってますけど、まぁしょうがないですね。
乙未事変
そのうち、どうしても、しょうがない連中だという事で、日本の大使だった井上馨たちが、朝鮮の近代化を進めなければならない人達と一緒になって、その近代化を妨害している閔妃(みんぴ)という后ですね。
王様はおとなしい人なのか知りませんが殆ど発言権がなくてですね、奥さんが後ろの方から喋っていたというんですが、その閔妃を殺すという事件が起こりました。
これはあの、当時の朝鮮近代派と京城にいて、いまのソウルですね、京城にいた日本人の血気盛んな人達が一緒になって、「けしからん皇后を殺してしまえ」という話です。
随分、乱暴な話ですけどね。
これは、日本も大使館を何度もやられて殺されていますから、まぁどっちもどっちです。
しかし、日本はすぐに責任者を呼び戻しています。
裁判を開いて有罪に致しました。
向こうでは、捕まった人は、死刑になったりしてますね。
それでも死刑になった人たちも、「日本人ほど、朝鮮のためになろうとした人はいなかった」なんて遺言状を書いていますからね。
朝鮮を近代化して、国家として、白人の植民地政策から大丈夫な国になって貰いたいとうのが念願がだったわけですよ。
ところが、頑迷になかなか進まないとう事でありましたですね。
福沢諭吉の脱亜論
その時、逃げてきた人の中に金玉均(きん・ぎょくきん)という人がいました。
これは日本で言いますと、大久保利通か木戸孝允みたいな人だったと思いますが、そうするとですね、朝鮮帝国が暗殺者を送ってきてしょうがないんですよね。
小笠原諸島に隠したりなんかした事もあったんですけど、そのうちにまぁ、向こうの方から丁重に呼ばれるんですね。
それで、福沢諭吉なんかは、随分可愛がったり、援助したりしたもんですから、あぶないから行くなと、言うんですけどね、行ったら、まぁ殺されましてですね、首は取られ体はバラバラ、そして川に投げ込まれですね、お父さんも死刑、子供も死刑かな、奥さんは悲しんで自殺、というような酷い目にあったりしてました。
そういう状況を見てですね、福沢諭吉は脱亜論を書くわけです。
アジアからもう、離れろというね。
こんなバカな国を相手にしていたら、日本まで損をするぞ、というのが脱亜論です。
その中で福沢諭吉はうまい事を言っていますね。
自分の家がちゃんとした木造でもですね、その周りにおんぼろの藁葺きの家があったらね、いつ火事になって燃え移ってくるかわからんと。
だから、そんな藁葺きの家に手を入れろって言っている暇は無いから、こっちが石造りにしろ、というようなのが脱亜論です。
まぁ、福沢諭吉みたいな人が、あそこまでガックリきたんですね。
当時の朝鮮をずっと見てて、ずっと手伝ってましたからね、朝鮮の近代化には。
もう、あきらめたと。
朝鮮に最初に出版された新聞も、福沢諭吉の弟子が京城でソウルで出したのが、朝鮮最初の新聞なんですね。
それぐらい、福沢諭吉は熱心に近代化を進めようとしていたんですけれども、まぁ効果はありませんでした。
日本に放棄させた遼東半島をロシアが取る
そのうちまたね、大変な事が起こるんですよ。
何が起こるかというとですね、日本に放棄させた遼東半島をロシアが取るんです。
だから、2~3年の経過はありますけど、まぁ強いて言えばですね、日本に返させた、その舌の根も乾かぬうちにと言いたいですね。
今度は自分が取っちゃうんですよ、遼東半島半島を、旅順、大連、全部。
満洲にも、どんどん軍隊を送り込みます。
白人にボロボロにされるシナ
そして今後はですね、ドイツもですね、山東半島、青島、あの辺、みんなドイツ領として貰うんです。
フランスはフランスでですね、広東辺りまで取っちゃうんです。
だから、ベトナムからずーっと広東辺りまでフランス領になるんですよ。
イギリスは、日本に返せという時に口は出しませんでしたけれども、他の国がみんな取るもんですからね、俺にもちょっとよこせと、いう事で、威海衛周辺と、香港の向かいの九龍半島を貰うんですよ。
ボロボロにされるんです、シナは。
裏目に出た夷を以て夷を制す
それは、こういう話なんですね。
「夷を以て夷を制す」という言葉があるんですね、シナ語には。
だから、外国を使って外国人を抑えさせるという、これがシナの政治の知恵みたいに言われていますね。
で、どうも李鴻章はですね、日本と平和条約を結びながらね、こっそりね、他の3国ね、ロシアとかドイツとかフランスにね、圧力をかけて返させてくださいと言ったらしいんですよ。
それでまぁ、夷を以て夷を制したんですね。
この場合の夷はロシア、ドイツ、フランスですね。
これを使って、もう一つの夷、日本を制しめたんです。
そして、遼東半島を返させたんです。
ところがですね、この夷というのはですね、日本よりもはるかに、はるかに悪質な連中ですからね。
タダでやるわけないですよ。
今度は俺にもよこせというわけで、ドイツは山東半島、フランスはベトナムから広東の辺りまでザーッと、それからロシアが一番問題です。
遼東半島、大連、旅順みな取っちゃうんです。
日本に迫り来るロシア
その他に更にロシアは、直に朝鮮に出てくるんです。
朝鮮の鴨緑江の沿岸の河口の近くにありました龍岩浦(りゅうがんぽ)という漁港があったんですが、そこまで取りましてこれをポート・ニコラスという軍港に変えます。
それからね、北朝鮮の森林伐採権を取ります。
それから、北朝鮮の鉱山発掘権もみなロシアが取ってしまうんですよ。
それに対して、日本は全部抗議を申し込むんですけどね。
北清事変
そんな事をやっている時にですね、1900年にいわゆる北清事変というのが起こりました。
英語で言うと、Boxer Rebellion(ボクサー・レベリオン)ともいうのですが、拳匪の乱(けんぴのらん)といいますね。
西洋の勢力を追っ払えという運動を起こすんです。
扶清滅洋(ふしんめつよう)というんですが、まぁスローガンだけはうまいんですなぁ、いつも。
清国を助けてね、西洋を潰せというわけです。
大暴れしまして、そして、北京も囲まれてしまって、そこにいた8ヵ国の人達、みな殺されかかるわけです。
で、これは初め、やっているのは匪賊(ひぞく)だと思ってたらですね、当時の清国の実権者でありました西太后が、清国の正規軍も動かし、西洋人を追っ払おうとしてたんですよ。
それで、天津もあぶなくなるですね、北京にいた人はみな殺しにされかかる、大変な事になりました。
これが大体1900年頃です。
日本軍の強さを知った英国司令官
そうしますとですね、誰が助けに行くかという事ですね。
北京の城内には、8ヵ国くらいの先進国がいたわけです。
その中に、日本もいたわけですが、自分たちで守らなければいけない。
で、必死に守るんですね。
司令官になったのは、年の順から言っても、国の格から言っても、イギリスがダントツですから、イギリスのクロード・マクドナルドという人が司令官になりました。
そして、他の7カ国の人がみんな協力してですね、北京をとにかく守ろうと、90日間くらい守ったんですよ。
その時に、マクドナルドが見ていますとね、頼りになるのは日本軍だけ。
日本の兵隊はですね、ごく少数なんですけれども、いつも規律正しくニコニコしてですね、勇敢であって、危ない所に日本軍が行けば守る。
相手は匪賊でありね、清国軍が助けているんですけどもね、烏合の衆なもんですからね、本気で守ればそこは破れないんですよね。
まぁ、日本が一番大変だったんですが、柴五郎という中佐がおりまして、少数で徹底的にやりました。
他の国は殆どあてにならない、それをよく、マクドナルドは見てました。
このクロード・マクドナルドが後で日本に対する公使、当時はまだ大使ではありませんが、公使になって、この人の恐らく報告で、2年後に日英同盟が出来たと思うんですね。
日本軍の働きを見ていたんですね。
それは、8ヵ国の先進国の駐在軍がみんな戦って、まともだったのは日本軍だけだったというのは、比べて見れたわけですね。
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