目次
- 1 日本獅子奮迅の働き
- 2 日本人を尊敬するシナ人
- 3 イギリスを苦しめたボーア戦争
- 4 日本軍に目を付けたイギリス
- 5 満洲に居座るロシア
- 6 日英同盟の成立
- 7 日露戦争に最後まで慎重な明治天皇
- 8 日露戦争を宣戦布告
- 9 日本を舐め切ったロシア
- 10 東郷平八郎 黄海の艦隊を一掃
- 11 遼陽会戦で辛くも勝利できた理由
- 12 黒木為楨大将の作戦
- 13 秋山好古の騎馬部隊
- 14 コサック騎兵の引き離し
- 15 歴史的大戦 奉天会戦
- 16 戦争から騎兵が消える
- 17 旅順の要塞
- 18 ウラジオストック入港を阻止せよ!
- 19 黄海海戦 迎え撃つ東郷平八郎
- 20 疲労困憊の日本軍
- 21 乃木希典の旅順攻略
- 22 旅順攻略に成功
- 23 日本の緻密な調査部隊
- 24 バルチック艦隊と日本海海戦
- 25 東郷平八郎 丁字戦法
- 26 日本の文明力の実力
- 27 日本海海戦は最初の30分
- 28 日露戦争勝利が世界に与えた衝撃
- 29 海軍は文明力で勝敗が決まる
日本獅子奮迅の働き
北清事変で、北京で匪賊や清軍から襲われるイギリスの司令官クロード・マクドナルドの元で、日本軍は必死に戦いました。
その働きを見て、まともなのは日本軍だけであると、イギリスの司令官クロード・マクドナルドは、他7ヵ国の軍と比べて見る事が出来ました。
それでも、いつまでももつわけはありません、そんな小さな軍隊で、連合軍で。
それで、開放しなければならない。
ところが、ドイツからであろうが、フランスからであろうが、アメリカからであろうが、大軍を送るには距離が遠すぎるんですよ。
近いのは、ロシアと日本だけ。
ロシアは今ぞとばかりに大軍を下ろしてきました。
それで、イギリスとか他の国はですね、日本にも出兵してくれと言うんですね。
日本は遼東半島、遼東還付でですね、下手に口を出すと、また「領土的野心がある」なんて言われて、取り戻されちゃ嫌ですからね。
もの凄く躊躇するんですけれども、正式に、イギリスの外務省からの要請があって、最初は福島安正少将、この人は、1人で馬で、モスクワからシベリアを通って帰ってきたという剛の者ですが、この人が天津を攻めます。
太沽砲台(タークーほうだい)なんかも日本軍の独り舞台ですね。
占領してしまいます。
それから、追っかけて、広島の第5師団が出兵します。
まともに戦ったのは、殆ど日本軍だけなんですよ。
それで、北京を開放し、清国政府はそこで降参するわけです。
日本人を尊敬するシナ人
それで、北京を占領して、8ヵ国の国が分担して、治安維持にあたるわけですが、どこの国の兵隊も泥棒なんですよ。
当時のイギリス兵でもね、お土産に持ってきたようなものでも、みんな盗むんです。
ロシアなんかは、本当に強盗が入ったのと同じなんですね。
ところが、日本の区域だけは、完全に大丈夫だったんですね。
それで、シナ人たちは、日本人を恐ろしく尊敬するようになるんです。
天津なんかではですね、とにかく日本の旗を出しておけば、ロシアが来ないという事で、日本の旗を出すというような事もありました。
イギリスを苦しめたボーア戦争
それを全部まぁ、世界中が見ていて、特に、イギリスは、「これだな」と思ったらしいのです。
というのはですね、イギリスは丁度、この北清事変が起こった頃に、南アフリカでボーア戦争というのがありました。
ボーア戦争のボーアというのはですね、百姓という意味でね、オランダ語で。
南アフリカのオランダ人植民地だったところです。
そこで農業をやっておった人たちをボーア人と言っておったわけですね。
ところがそこでね、ダイヤモンドなんかが発見されたもんでね、まぁイギリスが欲しくなった事もあってね、そこでイギリスの植民地に合併しようとしたわけです。
それで、ボーア人と戦って、まぁ4年間くらい戦って、イギリスは莫大な被害を出したけれども、なかなか収まらなくて、やっとの事で収まりをつけるというね、世界中から、イギリスの陸軍はあんなにアホか、と言われるくらいね、恥をかいた戦争をやっていたわけです。
それは、イギリスが初めてゲリラと戦ったという事で、大変だったわけですが。
まぁ、チャーチルもね、その時、出てね、命からがら助かっているという報告書かなんかを書いています。
チャーチルという男はね、しょっちゅう戦争に行ってはね、殺されかけて逃げてきてね、それを書いて儲けた男です。
まぁ、イギリスとしてはね、陸軍はね、もう遠い所は戦争は出来ない、とそう考えたんですね。
イギリスは、あの、ナポレオン戦争の時まではウェリントンが率いて戦いましたけれども、あれはベルギー辺りで戦っているわけでしょ。
すぐ先ですよ。
ところが、アフリカの先だと、勝てないんですよ、なかなか。
日本軍に目を付けたイギリス
相手は土民でも、いわんやね、その、アジアではね、明らかにロシアが下りてきている。
これにかこつけて、満州を征服しているんです。
そして、遼東半島は前から貰っていますね。
遼東半島を含め、北朝鮮まで含めて、ロシア領になってるんですよ。
あとは、彼らは下りてくるのは、朝鮮半島に下りてきて、更に黄河の流域まで下りてきて、ひょっとしたら北京まで取るかもしらんと。
これが、当時のイギリスの恐れです。
しかし、イギリスは止める力がないんですよ。
陸軍を送るわけにはいきませんので。
そこで、この北清事変、挙匪の乱の時に、ダントツ、どの専用の軍隊よりも規律正しく、勇敢で、戦争がうまかった日本と同盟を結んだらどうか、というのが1902年の日英同盟なんですよ。
日英同盟こそは、コロンブス以来ですね、有色人種と白色人種の間に初めて結ばれた、平等の軍事条約です。
初めて、400年ちょっとぶりですか、初めて、平等の軍事同盟が出来ました。
というのは、日本はね、サァーっと引き上げたんです。
その、解決するとサァーっとね。
引き揚げ方が綺麗だったんで、感心されたわけです。
満洲に居座るロシア
ところが満洲から、
満洲と言うのは、今の中国の北部と言われている所ですね。
満洲に居座ったロシア軍は引き揚げない。
それで、各国がやいのやいの言ったもんでね、「3回に分けて引き揚げます」と言って、1回目はちょっと引き揚げたんですけど、2回目から後は居座りで、むしろ兵隊を増やしているんですよ。
それで、日本も世界中から口撃するんですけどね、聞く耳もたないんですよ。
どっちみち、どうする事も出来ないわけですから。
先進国は、アジアに陸軍を送って戦争するわけにはいきません。
ロシアだけは地続きです。
そうすると、抗議はしても、ロシアが聞かなきゃ、どうにもならんのですね、これは。
日本も抗議に抗議をやりますが、聞く耳を持たない。
それで日本は、日清戦争の時から、どうしてもロシアとは戦わなければならないと腹は決めておったんですが、伊藤博文だとかですね、井上馨とか、慎重派がいましてね、最期までロシアと話し合わなければならないというわけで、ロシアに出かけて行くんですよ、伊藤博文なんかは。
なんとか、満洲で止まってくれと、満洲で止まれば日本は我慢すると。
朝鮮までは下りないでくれ、とこういうわけなんですね。
日英同盟の成立
それでももう、向こうは下りるつもりですから、そんな約束はしませんよ。
それでもなんとか、と言っている間にですね、日英同盟が成立しました、という知らせが行くわけです。
そうすると、伊藤は、「そうか、それならいい…」と言って、帰って来るんですね。
自分がやろうとした、当時のロシアと仲良くしようというやり方ですね、それがまぁ、潰れたわけですね、ある意味では。
日英同盟を結んで、戦う方に切り替わったわけですから。
しかし、一切面子は考えないんですね。
「それはよかった」と。
「日英同盟があれば俺は違うぞ」
というわけで、すぐに政府を全力で支持するんです。
日露戦争に最後まで慎重な明治天皇
そして、これはどうしても日露戦争になるなととね、何度も決めるんですよ、それでも明治天皇から、「もう一回相談し直せ」と言われて伸びに伸びるんですけれどね。
いよいよ戦争をしなければならないとなったのは、鎮海湾(ちんかいわん)に、ロシアが軍港を作りたいと、言ってきたことです。
鎮海湾というのは、朝鮮半島の南端ですね。
そこから、元寇の時もね、北条時宗の時にですね、元と朝鮮の連合軍は船で、壱岐対馬を攻めているわけですが、そこに軍港が出来たらですね、これは、日本海、全部支配されますからね。
これには、日本も抗議しましたし、朝鮮も抗議しましたけれども、まぁ、聞かないんだろうという事は分かっていました。
それで日本は、抗議しつつもですね、今戦争をしなければ、どっちみち、全部取られてしまうと。
朝鮮は100%取られてしまうと。
そうなるとね、壱岐対馬も取られるだろうと。
おそらく、長崎なんかも港として取り、沖縄、台湾も取られる恐れがある。
ひしひしと迫ってきたわけです。
絶対に譲歩しないと言ってきているわけですから、向こうは。
満洲はもう、全部取っているんです。
満洲はね、日露戦争の前にロシア領になったという事は、イギリス人が書いたものは、みな証明していますね。
ですから、当時の満洲には、イギリスからの宣教師もおりましたけれども、中国の東北部の満洲は、イギリスの布教の地域から見ますと、ロシア布教団がやっていたんです。
だから、イギリスの教会から見ましても、満洲は既にロシアとみなしておったわけです。
それで日本は、色々と腹を決めました。
日露戦争を宣戦布告
シベリア鉄道が複線とかなんかになっちゃったらですね、これはもう戦争にもなんにもなりません、いくらでも来るんですから。
大体、当時の国家予算で、大雑把に行って、向こうは10倍強です。
陸軍の数も10倍強なんですよ。
1対10なんですよ。
1対10にもならない、1対11くらいなんですね。
それでも、当時のシベリア鉄道であれば、これは単線ですからね、兵隊を送ったって、そんなに送れるわけはないと。
だから、今だったら戦争できる、という覚悟を決めて宣戦布告したのが、1904年の2月なんですね。
日本を舐め切ったロシア
これはですね、ロシアの方は、完全に日本を舐め切ってましてね。
向こうだって、日本と戦争をするだろうという事くらいは考えていますよ。
ただ、当時はね朝鮮半島の鉄道と言うのは、釜山からですね、京城、ソウルまでしか無いんです。
京城、釜山までしか鉄道が無くて、あと北に無いんですよ。
しかし、その黄海には旅順を軍港にしておりますロシアの艦隊がいますからね、日本がロシアと戦争をするとしても、兵隊を送っても、釜山に上陸させるか、裏側のところの似たような所に上陸させて、それから満州に行くよりしょうがないと。
これは、どう考えても1ヵ月や2ヵ月はかかるであろうという考えだったんですね。
日本を甘く見ていました。
東郷平八郎 黄海の艦隊を一掃
ところが、東郷艦隊はですね、たちまち、黄海の敵の艦隊を一掃するわけです。
そうするとですね、おかしな事にですね、日本の連合艦隊と同じくらい、あるいはちょっと戦艦の数は多かったんですけどね、旅順にいる艦隊が、港から出てこないんですよ。
だから、出てきたやつはみんな潰しちゃったと。
そうすると、日本はどこにでも上陸できる事になりました。
遼陽会戦で辛くも勝利できた理由
それで、朝鮮半島をトコトコ2ヵ月かかってですね、行く心配が無くなって、いきなり船をバンと遼東半島につけて、そこで上陸して、満洲と旅順を断ち切る事が出来たわけです。
ロシアは、そうなる前に十分軍隊を下ろせるつもりだったんですね。
ただ、敵もさるものでしてね、日本の計算よりもはるかに軍隊の集中は早かった。
なぜかというとですね、単線ですから、列車が来て、戻る時間もあるからね、随分能率が悪いと思ったらですね、そこはね、大ロシアですね。
軍隊を乗せた列車がハルビンまで来ますとね、それを全部捨てるんです、そこに。
次から次へと捨てるんですよ。
戻せばまた、その間、レールは使えないからね。
そういう事をして、集中したんですね。
それでも日本の方は、船を使ってすぐに上陸したもんですから、簡単に旅順と、北を断ち切る事が出来ました。
それから、第一軍は、朝鮮半島をトコトコ歩かないでですね、すみました。
これがまぁあの、遼陽会戦で、日本が辛くも勝った理由です。
ロシア軍は当時、陸軍は大きな軍隊の固まりね、2軍ありまして、1軍はアレクセイ・クロパトキンの方で、第2軍がアレクサンドル・ビルデルリングというのが、ハルビンまで来てたんですね。
これが間に合う前に、遼陽の戦いになったわけです。
遼陽の戦いでは、日本の奥保鞏(おくやすかた)大将の第2軍と野津道貫(のづみちつら)大将の第4軍が正面から、それから、脇の朝鮮半島の方から第1軍の黒木為楨(くろきためもと)大将が、猛烈な突進をやりましてですね、そして、辛くも勝つんです。
遼陽全面の戦いでは、それこそ橘周太中佐が戦死したくらいの、激戦に次ぐ激戦で、日本はほぼ、攻撃力が無くなるくらいだったんですね。
ところが、黒木隊長が行った朝鮮半島の方は、もの凄く元気がよくてですね、太子河を一気に押し渡って、饅頭山を占領してという事になったんですよ。
その時の、非常に有名な話がありますね。
黒木為楨大将の作戦
太子河という川がありましてん、前面に敵がいるわけです。
こちらは、黒木為楨大将の第1軍。
当時は、時代が良かったですから、どこにも観戦武官というのがいたんですね。
勉強の為に、他の国から来ている参謀将校。
黒木大将のところには、マックス・ホフマン中佐というのがドイツから来ていました。
それで見ていますとですね、大将が睨みあっている。
黒木大将が睨みあっていてもしょうがないと、兵隊を並べてですね、だまくらかしてですね、本体は全部別の所にまわして、川を渡ってしまおうという作戦を立てたんです。
そしたら、観戦武官のホフマンという、これはドイツの参謀本部から来ているんですね。
「黒木将軍質問があります」
というわけですね。
質問してもいいわけです、勉強に来ているわけですから。
当時の陸軍は、ナポレオン戦争に基づいて、大体戦術が組まれている訳ですが、
「川を渡るときは、とにかく大砲を集中して、敵を沈黙させてから渡るべきでは無いでしょうか」
「こっそり渡って、バレたらどうしますか?」
って言ったらね、黒木大将はね、
「いやぁ、ホフマンさんよ」と。
「わしは子供の時から戦争をしてきた」とね。
「大砲を撃って渡るったって、向こうの方が大砲は多いんだ」
「こちらが撃ち負けするかもしらん」と。
だからここは、ごまかして、後ろからサッと渡ると。
「今の私の勘では大丈夫だから見てなさい」
といったら、その通りだったと。
それをみて、ホフマンは感激しまして、黒木将軍の手を取ってですね、
「私は今までこんな貴重な教えを受けた事はありません」
と言って、帰ったんだそうです。
そして、この男が12年後ですかな、第一次大戦の時にですね、東方軍のね、作戦班長になるんです。
そして、敵の大軍とですね、タンネンベルクの戦いが始まる時にですね、同じく兵隊を並べてごまかしてですね、脇からバーッて行ってですね、あの歴史にのこるタンネンベルクの戦いで大勝利するわけです。
黒木さんから習った同じ手でやるんですね。
軍事指導の一つの美談っていうのかな、逸話ですね。
というような事で、遼陽では辛く勝ちます。
秋山好古の騎馬部隊
それから、陸上の戦いも、そう簡単では無いですね。
アレクサンドル・ビルデルリングはですね、日本は真冬は戦争は無いと思ったらですね、2月の真冬に、10マンの大軍が横っちょから来たわけですよ。
さぁ、大変だという事で、日本は大慌てでですね、立見尚文さんを中心にですね、独立軍を作って、黒溝台という所に激戦に行く。
その時に、まぁ有名なのは、秋山好古(あきやまよしふる)さんの、騎兵部隊なんですね。
これはあの、10年くらい前に出た、イギリスの日露戦争の本によりますとですね、秋山という名前は出てこないんですけれども、日本軍は、騎兵を歩兵として使う事を発明したと書いてあります。
これは、秋山さんはですね、コサックと戦ったって、どっちみち負ける事は決まっているんです。
向こうは、馬に乗って、シベリアを全部取った連中ですよ、何百年も、先祖代々、馬で戦争をしている。
日本は、馬は戦争用では無いんですよ。
騎馬戦なんていうのは無いですから。
それで、明治の初め頃に日本に来たイギリス人がですね、日本の馬を見て、「世界にこんな小さな馬がまだあったのか」これは進化論の証明になる、とか言って喜んだというぐらいのもんでしてね。
とても、騎兵は出来ないんです。
それで、オーストラリア辺りから買った、騎馬隊ですよ、騎兵隊です。
秋山さんはそれを任されたわけですが、まぁ、辛かったでしょうね。
ところがたまたまね、秋山の出身の松山のね、お殿様の息子がフランス留学するときですね、秋山さんの家は、松山藩の武士ですから、殿様の息子が行くんでね、頼まれてついて行ったんです。
そしてそこでね、機関銃を見たんですよ。
「これだっ!」てんでね。
それで、勝って貰ったんですよ。
機関銃を買ってくれたんですね、日本は。
それで、騎兵に機関銃を持たせたんです。
そして、コサックと戦う時は、馬から降りて機関銃で。
馬に乗って戦ったら、必ず負けますからね。
バッと降りて機関銃で戦うわけです。
機関銃は凄いですよ、これは。
一発一発ではなく、だだだだだだだだだだって出ますね。
人に当たらなくても馬に当たればいいんだから。
というような事でね、黒溝台でもね、秋山さんの騎兵隊は、一度も馬に乗ることなく、機関銃で頑張ったんですね。
コサック騎兵の引き離し
それで、秋山さんは、戦う時は機関銃だけれども、騎兵には騎兵の使い方があるんだというので、挺進隊を作りましてね、永沼挺進隊とか。
ほんの、10数名から20名くらいの騎兵隊を作って、奥地に行くんですよ。
そして、とにかく、シベリア鉄道を爆破しろと、いうような指令ですね。
そうするとね、ロシア軍はシベリア鉄道に対しては物凄く敏感なわけです。
ここを絶たれると、ロシアとの関係が切れますからね。
鉄道さえなければ、満洲とロシアとはですね、海と小島と離れたようなもんですからね、もの凄く敏感になるんです。
それで、クロパトキンもね、その一番ロシア軍の誇りである、そしてナポレオンも裸にして追い返した、コサックをね、前面に出さずにですね、鉄道を守る方に使っちゃうんですよ。
日本の方は、20人かなんかで、慌てさせているわけです。
ですから、3月10日の奉天会戦ね、その時、ロシアのコサック騎兵は出てこないんですよ。
後ろに回って、鉄道を守ってたんじゃないですか。
出てきたらえらい事ですよ、しかし、コサックが出てこなかったから勝てたと言っていいくらい、まぁ日本は勝ったわけです。
歴史的大戦 奉天会戦
3月1日から3月10日にかけましては、敵味方、約60万の大軍が、10日に渡って休みなしに戦い続けたという、それまでの人類に無い大戦争でありました。
それに比べますとね、ナポレオン戦争だってチャチなもんですよ。
規模から言っても10分の1くらいの兵隊がですね、大体1日くらいで終わったのが一つの戦いです。
ところがこちらの方は、ナポレオンが使った10倍ぐらいの軍隊が、10日間休みなしにやったというんですよ。
そして、敵は総退却いたしました。
だから、3月10日はね、陸軍記念日と言って、我々はまぁ子供の頃は祝ったわけですが、今は誰も祝いません。
3月10日は東京大空襲の日でしたという、なんか鎮魂の日になっちゃってですね、喜びの日にはならなくなっちゃたんですね。
それは、一つにはですね、こういう事があるんですね。
陸上自衛隊のOBたちがね、いるわけですが、この人達は本当は団結が強いんですね。
そういう記念日は祝う計画をやってもいいんですけれども、戦後はですね、日本陸軍は悪者だった、という事に決めつけられちゃったもんですからね、自衛隊が出来る時も、陸上自衛隊だけは、戦前の陸軍とは関係ないという立場で出発しちゃったんですよ。
だから、戦前の陸軍の事は一切関係ないみたいになりました。
ところが、海上自衛隊はですね、変な話ですけど、今、中国がしきりに言っているA級戦犯にもですね、海軍からは一人も出ていません。
全部、陸軍だけですね。
これはまぁ、満洲関係の話だからなんですが、まぁ海軍は悪者じゃなかったという話ですから、海上自衛隊は、戦前の海軍と切れていないという立場なんですよ。
だから、あの、日本海海戦のお祝いは、方々でやられています。
すこし前の日曜日に私は九州でやりましたけどね。
その主催者はね、海上自衛隊のOBがプランナーでやってんですね。
そうしましたらね、福岡の国際会議場ホールでやるというんで、出席の応募をしたわけですね。
そうしたら、応募数がね客席の3倍。
それで、抽選で3分の1を選んでですね、そして、当日直前まで、立ち見でもいいから見させてくれ、とひっきりなしに電話が来たと言っていました。
そのくらい、日本海海戦はですね、祝うんですよ。
陸軍は残念ながら、これは全く訃報なんですけどね、切られております。
でも陸上の戦いがですね、世界戦史にない、大戦争であった事は確かなんですね。
戦争から騎兵が消える
ですから、どういう結果があったかといえば、それまで世界中の陸上での戦いの華の華でありました、騎兵というものが消えます。
秋山さんが機関銃を使ったからですね。
機関銃が出た以上は、騎兵はダメだってわかりますから。
第一次大戦では、騎兵の出る幕は無くなるんですね。
出る幕は無くなって、せいぜい伝令だとか、そういう事に使っただけです。
あと、戦車の時代に入るわけですね。
だから、わずか11年後には、もう騎兵が消えているんですよ、世界から。
旅順の要塞
これは海軍と関係のある話ですが、旅順の要塞ですね。
これは日清戦争の時はですね、旅順も南山も半日か1日かくらいで落としていますからね、簡単に落とせると思っていたら、これがね、ロシアは要塞作りが、非常にうまいんだそうですね。
それで、旅順を難攻不落の要塞にするわけです。
旅順にいる海軍はですね、日本の連合艦隊全体よりも多い戦艦がいるんですよ、旅順には。
ウラジオストックには小さい軍艦が2、3隻いるだけで大した事は無い。
これは、出てきて悪さをしましてですね、日本の操船2隻ぐらい、常陸丸(ひたちまる)と佐渡丸(さどまる)を沈めてね、数100人殺してますけども、それくらいなんですね。
旅順には大艦隊がいるんですよ。
この大艦隊とですね、バルチック艦隊が来るわけでしょ。
そうなったら、戦艦だけでも日本の3倍くらいになるんですよ。
これは、海上の戦争は数学みたいなもので、計算できますから、大砲の数とかね、絶体絶命、勝ち目はない。
だから、当時の東郷平八郎大将の苦労は大変だったと思うんですね。
ウラジオストック入港を阻止せよ!
それで、その旅順の艦隊は、ウラジオに入ろうとするわけです。
ウラジオに入りますとですね、バルチック艦隊が来た時にですね、挟み撃ちにされるんですね、日本は。
だから、絶対にウラジオに入れてはいけない、というわけですね。
そうすると、ウラジオに行かないようにいつも見ていなければいけない。
片っ方は、港かなんかにいるわけですね。
だからこそ、この船を動かしたら大変だという事で、旅順は入り口が狭いから、そこに商船を沈めて、船を出られないようにしようというわけで、旅順港閉塞作戦というね、広瀬武夫中佐なんかが出て来てという事をやるわけです。
あれは成功しませんでしたけれども、決死隊です。
要塞の中に入って、船を沈めようというわけですから。
それでも、決死隊がいくらでも出たのは、当時は水兵さんのみんなに至るまで、とにかくあの船が出てきたら、あの湾の中にいる戦艦隊が出てきて、バルチック艦隊と一緒になったら日本は滅びると。
というのは、海軍が滅びれば、陸軍がいくら陸で勝っても、あっぱっぱですからね。
絶体絶命、負けられない、海では。
という事が分かっていましたらから、第3次決死隊まで行くわけです。
残念ながら成功しませんでしたけどね。
ですが、わけのわからない事が起こるんですね。
また旅順を攻めておった初めの頃ですね。
全然見えない旅順に試しに弾を撃ってみよう言う事で、ボカボカ1000発くらい撃ったんですよ。
そうしたら、結構当たったんですよ、船にね。
それでね、随分傷つく船が出てきて、向こうが慌てたわけです。
たまたま、それがロシア皇帝の耳に入ってですね、「港を出ろ、ウラジオストック行け」と艦隊が出て来たのが1904年の8月10日なんですね。
さぁ、どうするかですね。
これをウラジオに入れてしまうとですね、バルチック艦隊が来た時に、日本は挟み撃ちにあってしまう。
合わせてしまうと、戦力が日本の2倍になるわけですからね。
これを入れてはいけないけれども、これを入れないために海戦をやってですね、例え日本が勝ったとしても、こっちがうんと傷つけば、バルチック艦隊が来た時に困るじゃないですか。
いわんや、向こうに入られたらなお困ると。
にも拘らず入れちゃいけないというね、もの凄い難しい問題を与えられたわけです。
黄海海戦 迎え撃つ東郷平八郎
その時の司令長官の決断というのがどういうものなのかは私も分からないんですけれども、東郷さんは、とにかくウラジオストックに入れてはいけないだろうという事で、断固迎え撃ったわけです。
断固迎え撃って成功しても、こちらが傷つけばバルチック艦隊が来た時に困る。
ところがね、不思議な事が起こったんですよ。
それはもう、撃ち合っているうちにですね、すれ違ってしまったんですよ。
それで追っかけたもんだから、5時間くらい撃ち合ってですね、戦艦三笠の帆柱の根元に玉が当たってですね、帆柱が倒れ掛かったんですよ。
絶対絶命のピンチに、向こうと撃ち合っている時にね、今度は向こうの艦長と舵の所に、玉が当たったんですよ。
そうしたらね、命令する人がみんな死んじゃったんです。
丁度、司令官がいる所に当たったんですね。
それで、舵を取っていたやつも死んじゃってね、舵を握ったまま死んじゃったもんでね、旗艦がグルグル回り出した。
旗艦がグルグル回り出したもんだから、他の船もグルグルまわり出して。
それで、おかしいぞというような事でですね、慌てて見てみたら、舵を取っているやつが死んでいるというわけで、まぁこれはいかんというわけで旅順に戻るわけです。
そして、他の船も戻ります。
それを、徹底的に追えというんですけどね、結局、戦果無し。
疲労困憊の日本軍
もう、半年近くですね旅順を毎日こう見ているわけですからね、疲労困憊しているんですよ、日本軍の方は。
しかもこれをやっているうちにですね、日本の戦艦2隻も機雷に触れて沈んでいるんです。
日本は戦艦6隻しか無いうちの、2隻が沈んでるんですよ、そんな事をやっているうちに。
幸いにも、向こうもね、1隻沈みました。
旗艦ペトロパブロフスクという船で、ステパン・マカロフ提督が乗った船が沈んでくれましたから、一番勇敢な提督が死んでくれましたから、まぁ、それはよかったんですけれども。
それにしてもですね、8月10日の黄海の開戦というのは、殆ど成果なし。
ただ、成果があったとすれば、敵の船は旅順に戻ってしまったという事。
ウラジオストックに行けなかったという事ですね。
それから、日本の船も、戦果は上がらなかったけれども、沈んだ船は無かったと、無事で終わったわけですね。
その時は失敗だったと思っていましたけれども、東郷さんはね。
ただ、よかったのは、その時迎えに来たウラジオの船をですね、捕まえて、2隻くらい沈めて、日本の輸送船の恨みを果たしたと、まぁそのくらいの話でした。
乃木希典の旅順攻略
そのうちですね、旅順攻略の乃木さんの方が、海軍の方からせっつかれます。
とのかく旅順にまだ戦艦6隻、巡洋艦4隻いるわけですからね。
こんなのに出てこられたら、バルチック艦隊が出て来た時にえらい事になりますから。
とにかく旅順を取ってくれというわけです。
それで、旅順は正面の要塞はもの凄く重厚だけれども、203高地は…なんてことで乃木さんの悲劇があるんですが、まぁとにかく取らなければならないという事で、取りました。
取ってみますとですね、203高地、203mあるわけですね。
そこからね、旅順の港を見ますとね、真下に見える。
そこに観測所を建てて、28サンチ榴弾砲とかいう横須賀辺りの沿岸に置いてある沿岸砲を据え付けて、ボカボカ撃つわけです。
そして、全部沈めちゃう。
それで分かった事はですね、当時の海上の戦闘はですね、大砲を撃ち合うというのが建前でした。
それで、沈まないようにお互いに工夫したわけです。
ところがですね、真上から大砲を撃たれるとですね、意外に効き目があるですね。
真上から落ちるという大砲は。
それで、ボカボカボカボカ沈めたわけです。
で、これを後で研究したのがですね、ドイツのティルピッツという提督でね。
大砲の玉は、高角度から落とすとですね、意外な効果があるという事を発見してですね、1916年の第一次大戦の時の、一番大きな海軍の戦い、ジュットランド沖海戦というイギリスの海軍とドイツの海軍がやった時にこれをやったんですよ。
そしたら、イギリスの戦艦3隻が轟沈ですよ。
てな事で、それ以来、軍艦は甲板も底もえらく厚くする事になったんですけどね。
まぁ、そういう事もありました。
旅順攻略に成功
それで、船が全部沈んだという事が分かったらね、東郷さんという人は、やっぱり綿密な人でですね、自分の目で確かめているんですよ。
確かに一隻もいないと。
そう確認すると東郷さんは、武器などを送る輸送を警戒する船を少し残してね、全艦隊を軍港に返して、補修させるわけです。
それまで1年近く海に浮いていますから、随分汚れたりしているし、砲弾を受けて、壊れていたりしますから、全部それを徹底的に直したんですよ。
そして、兵隊も休養させたんです。
休養させられた兵隊はですね、どこの村に帰りましてもですね、日本中が、バルチック艦隊はどうした、と言っているわけですよ。
バルチック艦隊が来てですね、朝鮮半島を脅かしたら、陸軍がいくら勝っても、ダメですからね。
日本中が、バルチック艦隊、バルチック艦隊。
そうすると帰った兵隊さん達もですね、
「そうか日本の命運は俺たちの双肩にかかっているのか」
なんて言ってですね、火の玉のように闘志を燃やして帰っていくんですね。
そして、ゆっくり休んで、鎮海湾で、猛烈な砲撃の訓練をするんですよ。
その砲撃の訓練が旅順が落ちてから、バルチック艦隊が車で、そのうち2ヵ月くらい休んでいますけどね、最初は。
砲撃の訓練を見るのに、東郷平八郎大将は、一日も休んだ事が無かった。
必ず見に行っていた。
そして、玉の当たり具合がどんどんよくなるのを見ていたんですね。
参謀とか他の艦長なんかはこなかったりよくしたらしいんですけど、東郷さんだけは、一日も休まずに見ていたといいます。
それでいよいよ、バルチック艦隊ですね。
日本の緻密な調査部隊
これがどこに来るかも色々あったのですが、詳しい話は別にしてですね、当時の日本の偉かった事はね、敵を探すという事に非常に慎重でした。
南シナ海を沢山の区分けをしましてね、そこにみんな小さい船を置きまして、どこかに通る影があっても見えるようにして、すぐに鎮海湾に連合艦隊の司令部をおいて、そこに電信で知らせるようにしました。
この電信と言うのも、マルコーニが発明してから3、4年しか経っていないのに、マルコーニが電信が成功したとなるとですね、すぐに買ってですね、日本は船に備え付けたんです。
日本は、武装に対して、非常に敏感だったんですね。
そうしたらですね、敵の艦隊が来てですね、途中で、ロジェストヴェンスキーという艦隊司令長官はですね、対馬海峡の一番狭い所を渡るときに、昼に渡りたかった。
夜になると、日本の水雷艇とかきて、魚雷を発射されると、夜だと防ぎにくいからね、昼間通ろうと思った。
計算すると夜になっていまう。
時間をズラすためにね、南シナ海で砲撃練習なんかをやっていたんですね。
そうしたら、日本は艦隊が来ない、という事でえらく心配してですね。
ひょっとしたら、太平洋を渡って、青森から来るんじゃないだろうか、あるいは宗谷海峡から、などといった色々な説もありました。
結局、東郷さんがですね、鎮海湾で待ちましょう、という事で決まったわけです。
そうして、いましたらですね、南シナ海をたくさんの海区に分けましてね、網の目のように分けまして、そこの各船を置いて、通ったらすぐ電信するようにとしていたら、偶然にもね203という海区にね、艦隊が来た時に発見したわけです。
その艦隊の後をつけてですね、逐一電信を入れていましたので、どこをどういう風に行ったか、最後まで日本ははっきり分かっていました。
バルチック艦隊と日本海海戦
向こうは全然分からない、というような事で、日本海海戦が行われたわけです。
幸いに、前の年の8月10日の黄海海戦で日本は一隻も失わないで済んだわけです。
玉は当たったやつはあったけど、それは全部修復済み。
旅順に逃げ帰った敵は全部海の底、というような、考え得る一番いい形で、戦闘が行われました。
その時に、
「天気晴朗ナレドモ浪高シ」
といった電報が送られたのですが、これには非常に意味があってね、
天気晴朗という事はね、敵がよく見えるという事なんですね。
だから、こっちに有利。
霧に隠れられて逃げられたら、ウラジオに入られたら終わりですから。
波が高いという事は、もの凄く玉が撃ちにくいからね、向こうの玉は当たらないだろうという話なんですけどね。
そういう名文の電報が入ったわけです。
そして、撃ち合いが始まりました。
東郷平八郎 丁字戦法
この時有名なのが、丁字戦法ですね。
非常にリスクの高い戦法だったのですが、敢えてやると。
この時に東郷大将はですね、こんな事を言っていますね。
「この戦いでは、日本の軍艦は全部沈んでもいい。その代わり、敵も全部沈めればよいのだ」と。
敵さえ全部沈めれば、こっちはもういらないんだと。
そこまで腹を決めて、一番危ないんだけれども、敵を全滅させるための作戦を立てたわけです。
撃ち合っては逃げてを8回くらいやる計画だったけれども、結局10回くらい撃ち合っているんですね。
後に、秋山真之参謀がですね、大正2年頃に2つの論文を書いています。
黄海の開戦と日本海の開戦ですね。
日本海の開戦の時は、戦闘開始の時、Z旗を掲げたわけです。
このZ旗というのは初めから約束がありましてね、
「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
とう旗ですね。
日本の国の未来は、この戦いで決まるんだと。
ここで負ければ、陸軍の戦いもパー、全てパー、だからみんな頑張れというような旗なんですね。
そして撃ち合った時にね、これが1時55分、この旗が上がって、曲がり始めたわけです。
そうすると、敵は距離約8000mから撃ち始めた。
それからずーっと来てですね、日本は6000mになって日本が撃ち始めるわけですけれども、その撃ち始めたのがね、2時8分かその頃なんですね。
だから、わずか10分足らずの間にね、戦艦三笠に37発くらい玉が当たっているんです。
もの凄いんですね。
ただ、当時のロシアの弾丸はですね、徹甲弾といって鋼鉄を貫くっていう種類の弾丸が主だった。
どんどん貫いて落ちてくるんですね。
火薬は大して入っていないですし、火薬は古い形ですから、沈んだ船は無かった。
だから、日本の軍艦は一隻も沈みませんでした。
日本の文明力の実力
ところが日本の方はですね、下瀬火薬っていうのとね、伊集院信管ていうのが発明されていたんですよ。
伊集院信管なんてのは、どの本に書いてあるのか知りませんけどね、日露戦争の7年後に出来たイギリスのブリタニカの百科事典にはですね、伊集院信管の事が出てますよ。
如何にイギリス人は海の戦いに敏感だったかが分かりますね。
日本人も知らないような発明品の事がちゃんと書いてあります。
それから、下瀬火薬というのは全く新兵器と言っていいほどの、火力のある発明でありました。
これはピクリン酸を、なんか応用した火薬でね、日清戦争の前に一応出来るんですけれども、これを実用するには大砲などとの関係もあって、実用にはなりませんでしたが、日露戦争に間に合いました。
この下瀬火薬をいれて、伊集院信管をつけた日本の玉が当たりますとですね、すぐ爆発するわけです。
鉄鋼を貫くよりも爆発するんですよ。
爆発しますとね、この、下瀬火薬は4000度という滅茶苦茶な高熱を発して、破片が飛ぶわけです。
そうするとね、当たっただけでね、甲板が殆どダメになるんですね。
甲板に人がおれなくなるんですよ。
だから、たちまち敵はね、最初2、3隻、すぐに火災を起こすんですよ。
というのは、下瀬火薬は高温の為に、軍艦は全部ペンキを塗ってますけど、ペンキが燃え始めますからね、その甲板にはおられなくなるんですよ。
日本海海戦は最初の30分
だから、秋山さんは言っていますね。
最初の30分だけだったと、戦争は。
30分で、後は、翌日までね、それから9回戦争をやっているんだけれども、全部追撃戦であると言っています。
本当の撃ち合いは30分。
だから、この30分のために、日本海軍は10年間をやったんだ、といった事を書いてますけどね。
30分で戦闘の軍艦がポッポッポッポと燃え出すとですね、算を乱すわけです。
そうすると、彼らは、なんとかウラジオに逃げようとする。
それをまぁ東郷さんが追っかけたり、第二艦隊が追っかけたりして、次から次へと沈めて行くんですね。
夜になると水雷艇が出てきます。
これはあの、前の年の8月10日、黄海の海戦で駆逐艦が、殆ど手柄を何も立てなかったんで、全員艦長をクビにしていますね。
全部、新しい人を乗せているんです。
それはあの、それまでの戦いで既に勲章を貰うなんか決まった人はね、危ない事をしないという事がよく分かったんでね、若くてあまり勲章を貰っていないやつを艦長にしてですね、これがまた沈めるんですね、夜。
これは歴史に残る水雷艇と駆逐艦の攻撃ですが。
その時の水雷隊長の一人が、大東亜戦争の終戦の時の鈴木貫太郎です。
そして結局、翌日まで何度もやって、ドミトリー・ドンスコイ号が沈められて終わりました。
それで、ウラジオストックに逃げたのは、小さい船2隻くらいで、小型巡洋戦と運送船かなんかですね。
しかも焼けただれてますから、使い物にならない。
それから他に逃げたのは中立国で武装解除。
それから樺太まで逃げてそこで沈められたのもあります。
事実上、大艦隊が消えたわけです。
日露戦争勝利が世界に与えた衝撃
これはね、凄い影響力があったんですよ、世界中に。
陸上の戦争と言うのはですね、案外弱いとか、低い民度の軍隊もよく戦う事があるんですよ。
南アフリカのボア戦争が、イギリスの精鋭陸軍を4~5年苦しめ、もの凄い損害を与えました。
まぁ、ベトナムだってですね、アメリカ軍にえらい損害を与えていますね。
だから、陸軍というのはね、意外と頑張りがきくんです。
この前の戦争だって、硫黄島なんかはね、空軍も海軍も、何も助ける事が出来なかったけれども、陸軍は頑張っちゃって、死傷から言えばアメリカ軍の方が多かった。
硫黄島でもそうです。
一般民衆への被害は抜いて、軍人同士の被害で考えれば、アメリカ軍の死傷の方が多いんですよ。
陸軍というのはですね、頑張るともの凄い不利なところでも、戦う事が出来るんです。
海軍は文明力で勝敗が決まる
ところが海軍というのはね、完全に文明力なんですよ。
文明の差が絶対なんです、海軍は。
だから、海軍で負けると、本当の敗戦国になるんですね。
分かりやすい例で言いますとですね、イスラム圏というのは、かつては北アフリカからですね、今の中近東全部からトルコ辺りまでズーっとイスラム圏だったわけです。
そして、むしろ西ヨーロッパの方が恐れ気味だった。
ところが、イスラムの海軍が全滅したのがですね、1571年、日本で言えば織田信長と徳川家康の連合軍が浅井朝倉の連合軍と戦った、姉川の戦いの翌年ですね。
レパントと言う、半島の沖でですね、イスラムの海軍と、西ヨーロッパの連合艦隊がですな、戦ってイスラムの艦隊が全滅したんです。
それをもって、イスラムの脅威は去ったんですね。
ヨーロッパから永久に去りました。
やっぱり、海軍というのは決定的なんですね。
だからね、レパントの戦いというのは、普通、学校では教えないんです、小さい話だとして。
僕がたまたま知っておりましたのはですね、大学一年生の時に、英文学の時間にね、英語の先生がイギリスから来たばっかりで、この方は、進化論のチャールズダーウィンが勉強した地質学の本を書いた、チャールズ・ライエルという人のお孫さんでね、ケンブリッジ大学を出た人でしたが、詩人といいましょうかね。
我々に詩ばっかり暗記させたんですよ。
その詩はですね、イギリスならばパブリックスクールの学生がみんな知っているべきはずの詩を選んで、暗記。
説明も何もない、暗記、暗記、暗記。
その時ね、レパントの詩っていうのがあったんですよ。
これは、イギリス人はみんな覚えているらしい詩なんですね。
そんな事は忘れておったんですけどね、学会がバルセロナでありましてね、バルセロナの大聖堂に行った時に、そこで特別な集団みたいな人がミサをやっているんですよ。
「今日、なんかあるんですか?」
っていったらね、
「今日はレパントの勝利の日だ」
っていうんですよ。
だから、日本でいうとね、姉川の戦いの頃の戦いで海上の戦いで、イスラムの海軍が地上から永久に消えた日を祝っているんですよ。
だから、日露戦争で、日本の海軍が本当にバルチック艦隊を全滅させた、これはね、文明的な衝撃がいかに大きかったか、これをもって、20世紀と21世紀が始まると言ってもいいくらいです。