麻原彰晃・オウム真理教死刑囚死刑執行!命の重さは人数で変わるのか?政治活動に没頭する日弁連!武田邦彦

一気に処刑されたオウム真理教の死刑囚

オウム真理教の、あの死刑囚がですね、かなり一度に処刑されたもんですから。

もともと死刑反対論の人もいるし、それから一度にあんまり多く死刑しちゃってダメじゃないかとか、まあすでに死刑の判決を受けているのにも関わらず、罪の軽重によって決めるべきじゃないかと、いろんなものが出ております。

それでまあ、あの簡単なほうから片づけますと。

日本は死刑制度が存在する法治国家

まあ死刑の判決があればですね、まあ基本的にはそれが法治国家ですから。

死刑制度ってのが存在する限り、まあ人権的にも、もうこの最新の可能性はあまりないというような事典とかですね、そういう時点で死刑を執行するのは正しいことだと思います。

まあ死刑にはある程度の、裁判にはある程度の誤審というのも含んでることも加味してですね、社会が成立してるわけであります。

ましてですね、刑の重さと軽さ、例えば100人の人を殺した人を先に死刑して、10人しか殺さない人を後に死刑にするなんてそんなようなことはないわけで、それは裁判官が判断することでありますので、他の人が判断しちゃいけない。

まあ、現在の制度ではですね日本の制度では、最高裁判所を頂点とする法律のシステムの中で死刑判決を受け、それが確定したら、

法務大臣が執行のタイミングを見ると、まあいうことだけは許されておりますが、それ以外は許されておりません。

法務大臣が、執行のタイミングを見るということが適当かどうかもですね、これはやはり社会システムの中で存在しますから、国民が決めた通りに実施をすると、まあ言うのが筋だというふうに思います。

インテリぶる死刑廃止論者

死刑廃止論を見ますとねですね、死刑廃止論てのは長くありまして、特に最近では死刑を廃止論に賛成する方がなんかインテリというかですね、知識人というか進歩人みたいに思われて。

死刑を維持する方は、野蛮人であるという感じがありますが、まあそうではありません。

長くハンムラビ法典及びユダヤ法典などから延々と引き継がれてきた、まあ人間社会の法律体系というものはですね。

その基本の基本はですね、目には目を歯には歯をという概念。

自分が他人に損害を与えたら、その損害は贖うのだと。

まあもっと基本的には、犯罪になんなくても100万円を借りれば100万円を返すんだっていうことなんですよね。

100万円を借りたけども、100万円は返さなくていいよってことになると。

これは、我々の社会の構成をもう一回全部考え直さなきゃない。

ですから、まあ相手の腕を切り落としたら自分の腕が切り落とされるかどうかは別にして、切りと落とされるに相当する刑を受けると、例えば懲役刑を受けると。

例えば、相手の腕を切り落としたら、それは相手にとってどのくらいの損害になるのかと、言うことで。

まあ例えば、人生の半分を捨てるとかですね、4分の1を捨てるとかいうことを決めて、それで監獄に代わりに入ると、まあそういうことであります。

でそういった規則はですね、人間の宗教論、もしくはそういった心の問題から言えばですね。

遺伝子の命ずるままであると、いうことになるわけですね。

殺した人を生き返す事が出来るのか?

そうなりますと、今度は死刑っていうこと、相手を殺人、殺したってことになると、もう相手の命を贖うことが出来ないわけですよ、どういう方法でも出来ないわけですね。

全財産投げうっても、自分の全人生を懲役刑にしてもですね。

自分はご飯を食べておいしさを味わうし、まあいろんなこともしますんでね。

まあ仮に保釈されるようなこともおこうると、恩赦もあると。

そうなりますと、それはやっぱり法というものをどう作るかの根源に関わりますね。

ですから、人を殺した場合には、まあ基本的には死刑ということなんで。

人間の命の重さは人数で変わるのか?

最近のように、一人殺しても死刑にならないと、複数殺したら死刑なるっていう如きですね。

なんか人の死というものが、数によって重さが変わるという、まあ日本の裁判制度、裁判の敢行というのは非常に私はおかしいと思いますね。

もしそれがそうならですね、法の関係者は国民に向かって、国民が決めるんですからね、法の関係者が専門家じゃないわけですから。

国民に向かって、なぜ、一人の死と二人の死、十人の死という重さが違うのかと。

そのことをですね、法律的じゃなくてこれは法律の問題じゃないんですよね。

法律っていうのは、単に社会的な考え方を制度にしたに過ぎないわけです。

死刑に反対する日本弁護士連合会会の傲慢さ

裁判官とか弁護士とか検事って言うのは、その法になったものを実施する、正しく実施するのに過ぎないわけですから。

まあ例えば、弁護士会かなんかが死刑を反対したりですね、とんでもないことで。

要するに、死刑の廃止運動つうのがもしあれば、それは弁護士から出てくるものじゃなくて、あの社会から出てくるもんじゃなくちゃいけないわけですね。

もちろん弁護士も、一社会人ですからそれは一社会人として活動するのは構いませんが。

弁護士が法律に反対するってことは、やっぱりまずいんですね。

これどうしてかって言いますと、裁判官とか検事とか弁護士っていうのは、国会で定まった法律を忠実に実行する専門職であって、決して法律になんかいちゃもんつけるような、資格があるでもなんでもないわけです。

ですから、弁護士資格というものを名乗って死刑廃止論を唱えるっていうのは、筋違いということになりますので、そこはグッと堪えなきゃいけないわけですね。

死刑を廃止しても殺人の数は変わらないというくだらない理論

それから、弁護士なんかから出てくる死刑廃止論の多くは、死刑を廃止しても殺人の数は変わらないと、そういうくだらないことを言ってるんですけど。

これは全然、我々通常の国民が考えてる事と違うんですよ。

我々は、法の基本を言ってるんですね。

法というのは、100万円借りたら100万円返すと、これが法なんだと。

だから、100万円貸したのに100万円返してくれない場合は、我々が裁判に訴えたら、裁判官が100万円返しなさいとその人に言うんですよ。

で、返せないと言ったら、じゃあ家・屋敷を出しなさいと。

家・屋敷が50万円にしか相当しなかったら、50万円分ちゃんと働いて返しなさいと、こういうふうに命令してくれるのが裁判官、そのために我々は裁判官を雇ってるんですよ。

裁判官とか弁護士が、いばっちゃあいけないんですよ。

我々国民が、雇って皆さんの給料を出してるわけですからね。

殺人犯に人権なんて存在しない

そう意味では、日本人はもう明らかにですね、私も含めて人の命を殺して亡くした場合は、基本的には自分の命を投げ出す以外に、そのこの社会における通念を守ることができないと考えてるわけですね。

よく、死刑囚の人権なんて言ってますけど、死刑囚っていうのは死刑を犯した…あの死刑囚じゃなくて殺人犯の人権なんて言ってますけど。

殺人犯ってのは、殺人を犯した時点でもう人権はないんですよ。

つまりもう、人を殺してるから人権はないんです、これはもう仕方ないわけですね。

それから、誤審があるじゃないか。

これはですね、悪いことがあると悪いことを二重に重ねて直そうっていうことは時々行われるわけですね。

これは、マイナス×マイナス=プラスでもいいんですけども、まあそういった手段って言うのは結構世の中には多いわけですよ。

悪いことを、直さんといかんのに悪いことをそのままにして、そしてもう一個悪いことを重ねることによって悪いことの欠陥を直すっていうやつですね。

冤罪を無くすのは弁護士の仕事である

もちろん、冤罪をいかにして無くすかっということに全力を注がなきゃいけないわけですが、日本には冤罪を無くすのが弁護士制度ですからね。

弁護士が頑張って冤罪を無くすと、まあいうことが非常に重要なことで。

やっぱり弁護士会はですね、なぜ冤罪があるのかという研究会を十分にしなきいけないんですが。

私は、司法関係とか放送関係っていうか、かなり詳しいんですけれども。

それでも弁護士会がですね、いかにして冤罪を無くすかっていう研究会を盛んにしてるってことはありません。

それから、法律関係の雑誌読んでもですね、なんていうんですかね、そういう本当に基本的なまあ日本の刑事的裁判の有罪率が99・9%であるのを直さなきゃ、直んなきゃいけないとかですね。

裁判官の任命が、最高裁判所総局によってコントロールされてるんではないかとか。

それから、裁判官の裁判にこういう冤罪があったけども、この冤罪をなくすためには弁護士としてはどのようなことをやるのかというな事は、さっぱり議論されておりません。

政治活動に没頭する日本弁護士連合会

日本弁護士連合会の中枢部は、もう政治活動に没頭しておりますし。

日本弁護士連合会に所属する弁護士の末端の方はですね、末端つったら失礼なんですけど、一般の弁護士さんの方はお金儲けに奔走してると。

まあ言うことで、まあもっと弁護士…弁護士学と弁護士力というもの研鑚を積んでもらいたい。

そういうことをなくして、死刑の廃止論なんかを弁護士が唱えるのはもう、噴飯ものであると。

あなた方は、法律を何だと考えてるんですか、誰が主人なんですかと聞きたくなりますね。

 
 
 

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